世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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西本願寺のサイトは、最近、スッキリしてきた。なかなかの
職人がやった仕事だと思う。
宗門の基本情報という、簡潔なページも、用意されている。
そこを見ると、
「目的」
この宗門は、親鸞聖人を宗祖と仰ぎ、門主を中心として、
宗制を遵守する個人及び本山、寺院、教会その他の団体を包
括し、浄土真宗の教義をひろめ、法要儀式を行い、僧侶、寺
族及び門徒その他の信者を教化育成し、他力信仰の本義の開
顕に努め、人類永遠の福祉に貢献することを目的とする。
と示されている。
注目すべきは、「宗制を遵守し」という箇所である。
その宗制の基盤が、教章といわれるもので、いわば宗門の憲法だ。
これをまず守らずして、宗制を遵守しているとは言えまい。
その教章には、「宗名」「宗祖」「本山」「本尊」「聖典」「教義」
「生活」など、守るべき極めて大切な事柄が、明記されている。
中でも、根本に尊ぶべき「本尊」の欄は、こうだ。
本尊(ほんぞん)
阿弥陀如来(あみだにょらい) (南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ))
釈迦如来でもなく、観音菩薩でもなく、すべての仏の本師本仏といわれる
阿弥陀如来であるが、その次に「南無阿弥陀仏」と示されているのは何故か。
本願寺中興の祖、蓮如上人は、
「他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像というなり。
当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」
(蓮如上人御一代記聞書)
とおっしゃっている。浄土他流では、名号よりも、絵像がよいし、
絵像よりも、木像がよいといって、御本尊にしているが、
親鸞聖人の教え、当流では、ご名号「南無阿弥陀仏」こそ正しい御本尊で
ある、と明言されたお言葉である。
かつて、この問題は、浄土真宗親鸞会との間で、論争があった。
浄土真宗親鸞会より、「浄土真宗の正しい御本尊は、名号ではないのか」
との質問があり、数度のやりとりの末、本願寺派は
「伝道院紀要」の中で、
「親鸞聖人が御本尊となされたものは、現存の資料による
かぎり直接には名号本尊であったことは学者の指摘する
ところである」(『伝道院紀要』十九、P.53)
「親鸞聖人においては、名号を本尊とされたことは事実で
ある」(同、P.60)
「親鸞聖人は名号を本尊とされた事実は明瞭である」(同、P.61)
「明確に言えることは、親鸞聖人自身が礼拝の対象として
安置された御本尊は名号本尊であり、門弟に下付された
本尊も現存する資料からでは、やはり名号本尊であった
ことは確かである」(同、P.63)
と認めている。その後、宗門内での議論の末、教章に明記されるに
至ったのである。
この「教章」は、別名「私の歩む道」とも書かれている。本願寺派に
所属する個人、寺院、団体等すべてが、歩む道でなければならない。
ならば、ただちに、まず御本尊から、教章に従わなければならないの
は明らかではないか。
月あらたまって、今年もはや、三月である。まことに無常の風は待った
なしである。速やかに、祖師、蓮師が教えて下された、正しい御本尊に、
させて頂こうではないか。すでに始めている寺院、団体があることは、
このブログでも、ご紹介している通りである。
各位の行動に期待している。
職人がやった仕事だと思う。
宗門の基本情報という、簡潔なページも、用意されている。
そこを見ると、
「目的」
この宗門は、親鸞聖人を宗祖と仰ぎ、門主を中心として、
宗制を遵守する個人及び本山、寺院、教会その他の団体を包
括し、浄土真宗の教義をひろめ、法要儀式を行い、僧侶、寺
族及び門徒その他の信者を教化育成し、他力信仰の本義の開
顕に努め、人類永遠の福祉に貢献することを目的とする。
と示されている。
注目すべきは、「宗制を遵守し」という箇所である。
その宗制の基盤が、教章といわれるもので、いわば宗門の憲法だ。
これをまず守らずして、宗制を遵守しているとは言えまい。
その教章には、「宗名」「宗祖」「本山」「本尊」「聖典」「教義」
「生活」など、守るべき極めて大切な事柄が、明記されている。
中でも、根本に尊ぶべき「本尊」の欄は、こうだ。
本尊(ほんぞん)
阿弥陀如来(あみだにょらい) (南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ))
釈迦如来でもなく、観音菩薩でもなく、すべての仏の本師本仏といわれる
阿弥陀如来であるが、その次に「南無阿弥陀仏」と示されているのは何故か。
本願寺中興の祖、蓮如上人は、
「他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像というなり。
当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」
(蓮如上人御一代記聞書)
とおっしゃっている。浄土他流では、名号よりも、絵像がよいし、
絵像よりも、木像がよいといって、御本尊にしているが、
親鸞聖人の教え、当流では、ご名号「南無阿弥陀仏」こそ正しい御本尊で
ある、と明言されたお言葉である。
かつて、この問題は、浄土真宗親鸞会との間で、論争があった。
浄土真宗親鸞会より、「浄土真宗の正しい御本尊は、名号ではないのか」
との質問があり、数度のやりとりの末、本願寺派は
「伝道院紀要」の中で、
「親鸞聖人が御本尊となされたものは、現存の資料による
かぎり直接には名号本尊であったことは学者の指摘する
ところである」(『伝道院紀要』十九、P.53)
「親鸞聖人においては、名号を本尊とされたことは事実で
ある」(同、P.60)
「親鸞聖人は名号を本尊とされた事実は明瞭である」(同、P.61)
「明確に言えることは、親鸞聖人自身が礼拝の対象として
安置された御本尊は名号本尊であり、門弟に下付された
本尊も現存する資料からでは、やはり名号本尊であった
ことは確かである」(同、P.63)
と認めている。その後、宗門内での議論の末、教章に明記されるに
至ったのである。
この「教章」は、別名「私の歩む道」とも書かれている。本願寺派に
所属する個人、寺院、団体等すべてが、歩む道でなければならない。
ならば、ただちに、まず御本尊から、教章に従わなければならないの
は明らかではないか。
月あらたまって、今年もはや、三月である。まことに無常の風は待った
なしである。速やかに、祖師、蓮師が教えて下された、正しい御本尊に、
させて頂こうではないか。すでに始めている寺院、団体があることは、
このブログでも、ご紹介している通りである。
各位の行動に期待している。
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アカデミー賞をとった『おくりびと』、28万部売り上げたと
いわれる『悼む人』などを取り上げて、「死と生をみつめて」
というタイトルで、放映された、昨晩のクローズアップ現代、
皆さん、ご覧になりましたか?
中で、中沢新一さんが、こんな発言をしています。
「日本人には、もともと最低で、最高のセイフティー・ネット
が用意してあって、誰でも亡くなると、そのネットが受け入れて
くれるという安心感があった。
それは、阿弥陀様とか、いろんな言い方で表現していたもので、
この存在の世界では、そのセイフティー・ネットが、最低の
ところにある。
ところが、最近では、そういうものがなくて、セイフティー・
ネットといっても、経済的なものとして、セットしてある。
それを越えて、その底を突き抜けた時に、何か受け入れて
くれるものがあるだろうか、そういうところまで、現代は、
切迫していると思います。」
現代において、死をまじめに見つめる、後生を見つめると
いうことは、すっかり忘れられている、という認識には賛同
します。いっぽうで、「阿弥陀さま」云々とのところは、さて、
「親鸞聖人は、どこにそんなこと、おっしゃっていますか」
と訊かずにおれません。死ねばすべての人を、阿弥陀仏という
セーフティ・ネットが受け入れてくれる、つまり、死んだら、
みんな阿弥陀仏に救われる、ということでしょうか。
そんなことを、どこに親鸞聖人がおっしゃっているのか。
「もしまたこのたび、疑網に覆蔽せられなば、かえりてまた
曠劫を経歴せん」(教行信証総序)
「ひとたび人身を失いぬれば、万劫にもかえらず。この時
悟らざれば、仏、衆生をいかがしたまわん。願わくは深く
無常を念じて、いたずらに後悔を残すことなかれ」
(教行信証行巻)
平生に、信心獲得しなければ、未来は一大事であることを、
警告しておられる、親鸞聖人のお言葉です。
「真実の信心をえたる人のみ、
本願の実報土によく入ると知るべし」(尊号真像銘文)
「信心を決定せずば、今度の往生は不定なり」(御文章)
誰も彼もが、死ねばみな、極楽へ救われるのではない、
平生に、信心獲得した人だけが、極楽へ行けるのだ、繰り
返し、親鸞聖人も、蓮如上人も、仰せであります。
その点、中沢氏の言うようなことの根拠は、私の勉強不足
かも知れませんが、見出すことはできませんでした。
いわれる『悼む人』などを取り上げて、「死と生をみつめて」
というタイトルで、放映された、昨晩のクローズアップ現代、
皆さん、ご覧になりましたか?
中で、中沢新一さんが、こんな発言をしています。
「日本人には、もともと最低で、最高のセイフティー・ネット
が用意してあって、誰でも亡くなると、そのネットが受け入れて
くれるという安心感があった。
それは、阿弥陀様とか、いろんな言い方で表現していたもので、
この存在の世界では、そのセイフティー・ネットが、最低の
ところにある。
ところが、最近では、そういうものがなくて、セイフティー・
ネットといっても、経済的なものとして、セットしてある。
それを越えて、その底を突き抜けた時に、何か受け入れて
くれるものがあるだろうか、そういうところまで、現代は、
切迫していると思います。」
現代において、死をまじめに見つめる、後生を見つめると
いうことは、すっかり忘れられている、という認識には賛同
します。いっぽうで、「阿弥陀さま」云々とのところは、さて、
「親鸞聖人は、どこにそんなこと、おっしゃっていますか」
と訊かずにおれません。死ねばすべての人を、阿弥陀仏という
セーフティ・ネットが受け入れてくれる、つまり、死んだら、
みんな阿弥陀仏に救われる、ということでしょうか。
そんなことを、どこに親鸞聖人がおっしゃっているのか。
「もしまたこのたび、疑網に覆蔽せられなば、かえりてまた
曠劫を経歴せん」(教行信証総序)
「ひとたび人身を失いぬれば、万劫にもかえらず。この時
悟らざれば、仏、衆生をいかがしたまわん。願わくは深く
無常を念じて、いたずらに後悔を残すことなかれ」
(教行信証行巻)
平生に、信心獲得しなければ、未来は一大事であることを、
警告しておられる、親鸞聖人のお言葉です。
「真実の信心をえたる人のみ、
本願の実報土によく入ると知るべし」(尊号真像銘文)
「信心を決定せずば、今度の往生は不定なり」(御文章)
誰も彼もが、死ねばみな、極楽へ救われるのではない、
平生に、信心獲得した人だけが、極楽へ行けるのだ、繰り
返し、親鸞聖人も、蓮如上人も、仰せであります。
その点、中沢氏の言うようなことの根拠は、私の勉強不足
かも知れませんが、見出すことはできませんでした。
先日、『本願寺新報』のWEBページを見ると、去年の4月号で
更新が止まっていますよ、と指摘しました。
いまだ、変わらないままですが、はてさて。
いっぽうで、『大乗』のサイトは、平成21年3月号の内容が
ちゃんと紹介されています。
目次の中には、クリックすると、立ち読みできちゃう仕掛けも
あって、なかなか工夫していますね。
この調子で、『新報』のサイトも、がんばってくださいよ。
文章伝道も、現代において欠かせないメディアですからね。
「伝道」というのは、道を伝える、ということで、仏教を教える、
伝えるということです。
「布教」というのも、教えを宣布する、ということで、やはり、
仏教を教える、伝える、教えることです。
「破邪顕正抄」というのは、本願寺三代目覚如上人の子、存覚上人
のご著書ですが、邪義を破り、仏の正意を顕かにせよとのご著書で
あります。(一般人さんへ。造語ではありませんぞ)
「他力の信をえん人は 仏恩報ぜんためにとて
如来二種の回向を 一方にひとしくひろむべし」(親鸞聖人)
大いに布教しましょう、伝道しましょう、顕正しましょうと、
宗祖は仰せです。
私たちも、大いにつとめたいと思います。
以下は、蛇足ですが。
なお、正意を伝える時、相手の持っている誤解、異解、邪義を
破られねば、真実伝えることはできませんから、これを破れ、と
言われるのは当然で、破邪と顕正とは表裏の関係であります。
だから、顕正は良いけど破邪はダメ、なんて、変な話ですよね。(一般人さんへ)
更新が止まっていますよ、と指摘しました。
いまだ、変わらないままですが、はてさて。
いっぽうで、『大乗』のサイトは、平成21年3月号の内容が
ちゃんと紹介されています。
目次の中には、クリックすると、立ち読みできちゃう仕掛けも
あって、なかなか工夫していますね。
この調子で、『新報』のサイトも、がんばってくださいよ。
文章伝道も、現代において欠かせないメディアですからね。
「伝道」というのは、道を伝える、ということで、仏教を教える、
伝えるということです。
「布教」というのも、教えを宣布する、ということで、やはり、
仏教を教える、伝える、教えることです。
「破邪顕正抄」というのは、本願寺三代目覚如上人の子、存覚上人
のご著書ですが、邪義を破り、仏の正意を顕かにせよとのご著書で
あります。(一般人さんへ。造語ではありませんぞ)
「他力の信をえん人は 仏恩報ぜんためにとて
如来二種の回向を 一方にひとしくひろむべし」(親鸞聖人)
大いに布教しましょう、伝道しましょう、顕正しましょうと、
宗祖は仰せです。
私たちも、大いにつとめたいと思います。
以下は、蛇足ですが。
なお、正意を伝える時、相手の持っている誤解、異解、邪義を
破られねば、真実伝えることはできませんから、これを破れ、と
言われるのは当然で、破邪と顕正とは表裏の関係であります。
だから、顕正は良いけど破邪はダメ、なんて、変な話ですよね。(一般人さんへ)