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世界の光・親鸞聖人の教えを世界に! 夢は大きく、現状には厳しい目を!
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◆入門仏教塾
  2月10日 18時30分
  「各宗の教えに学ぶ」
  講師 狭川宗玄師中央例会 

 東京親鸞会の行事案内に、こんな記事があったので、先日、
批判記事を書きました。
 真宗の教えでさえ、いまだ徹底できていないのに、そこへ
他宗の教えを学んで、どうするのよ、と思ったのでしたが、
別に当ブログで書いたからではないでしょうが、次の行事は
こうありました。

◆2月21日 15時30分
 「阿弥陀仏の四十八願」-第十八願の世界-
 講師 五十嵐大策師
 場所 聞法ホール

そうそう、そうこなければ。弥陀の四十八願、中でも、選択
本願、王本願といわれる十八願の真意をお伝えするのが最も
大切でしょう。
それでこそ、東京「親鸞」会。
(悪口ばかりと、言われますが、よい時はよいと、
 こうしてちゃんと書いていきますので、よろしく)
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 過日の中外日報の記事より。
 僧侶の研修会で、葬儀・法要の現状を分析し、これから
どうやっていくべきか、という話がなされました。
「葬儀に、仏法の色合いが少なくなり、単に亡くなった人
とのお別れの会、となっている」
「葬儀・法要が、伝道の場となっていない」
「すでに、僧侶不在の、葬儀も多い」(これは、創価学会
の友人葬のことか)
「葬儀だけ依頼され、その後、檀家になられるわけでもない」
「読経が単なるBGMになってしまっている」

 最後の、「読経がBGMに」というのは、残念な現状です。
本来、釈迦牟尼世尊のご説法を、書き記したお経を、心静かに
拝読し、拝聴し、その後の法話の時間に、仏意を聞かせて頂く
のが、法要の意味ではなかったでしょうか。

 単なるBGMになってしまったのは、嘆くべきことですが、
じゃあ、読経する僧侶の側に、「この経典の仏意を、皆さんに
お伝えしなければ」という熱意が、あったのか。
 ただ読経して、挨拶をして、終わり、という形式的に、すで
にして僧侶自身が、なってしまっていたのではないか、と、
記事を読みながら、思ったのでした。
 いかがでしょう?
 もちろん真宗では、そんなことやっていませんが、他宗では
2月初めの節分になると、芸能人や、有名なスポーツ選手など
を呼んで、豆まきをやります。
 テレビなんかでも、その時期には、必ず「誰が、どこで、豆を
投げた」とか「いや、自分で食べていた(笑)」などという映像
を流しています。

 福は内へ、鬼は外へ
 そう願わずにおれないのは、人情ですが、しかし、欲の青鬼、
怒りの赤鬼、ねたみそねみの黒鬼は、私たちの心の中にいるの
ですから、「外へ、出て行け」といっても、そうはいきません。

 では、その煩悩あるがままで、どうしたら救われるのか。
「超世の悲願ききしより
   われらは生死の凡夫かは
   有漏の穢身はかわらねど
   こころは浄土にあそぶなり」(親鸞聖人)
 宗祖が教えておられるように、弥陀の本願を聞信した一念で、
煩悩いっぱいの穢れた体は変わらぬままで、心は極楽浄土へ行っ
て遊んでいるような、大安心、大満足になれる、と仰せです。

 その身になれば、煩悩が菩提に転ずる、絶対の幸福の世界の
あることを、このようにも仰せです。
「罪障功徳の体となる
   氷と水のごとくにて
   氷おおきに水おおし
   さわりおおきに徳おおし」(親鸞聖人)

 福は内、と、豆なんかまかなくても、真の幸福に生かされる
世界がここにあることを、親鸞学徒の私たちは、大いに叫び
たいと思います。

 節分会で、ふだん閑散とした伽藍に、少しでも人を集めたい
という、そんな思いで有名人を呼んだのだとしたら、何とも
寂しい絵だな、などと思いながら、テレビを観ていたのでした。
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プロフィール
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年齢:
64
性別:
男性
誕生日:
1960/10/31
職業:
真宗関係
趣味:
音楽・映画・地図を眺める
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