世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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ちょっと旧聞に属しますが、こんなサイトがありました。
双方の言い分、紅楳氏の本音が、浮かび上がってきます。
同時に、本派の学僧たちの実態も、うかがえます。
「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで・U氏と紅楳英顕氏の話
双方の言い分、紅楳氏の本音が、浮かび上がってきます。
同時に、本派の学僧たちの実態も、うかがえます。
「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで・U氏と紅楳英顕氏の話
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蓮如上人は、御文章に
「信心決定の人も、細々に同行に会合の時は、
相互に信心の沙汰あらば、これ即ち真宗繁昌の根元なり」
(4帖8通)
「会合の座中に於て、信心の沙汰をすべきものなり」
(1帖12通)
信心の沙汰をすすめておられます。
顕正新聞によると、浄土真宗親鸞会(本部・富山県射水市)は、
聞法のための正本堂に続いて、信心の沙汰をする場所として、
同朋の里の建設工事を続けており、来年は、F館に着工する、
と書いてあります。
まあ、たしかに二千畳の大講堂は、毎週、数千とも1万とも言われる参詣者
が一堂に会するには必要ですが、少人数に分かれて、信心の沙汰をする
となると、広すぎますよね。
そこで、同朋の里の建物は、小部屋がたくさん設けられているようです。
(大派僧侶さん、顕正新聞に掲載されている、二千畳満堂の写真を見れば、
貴文中の「不要な箱物」などというのは、的外れな中傷だと分かりますよ)
蓮如上人は「真宗繁昌の根元」といわれた「信心の沙汰」、大いに
させていただきたいものです。これは、本願寺派、大谷派、親鸞会、など
団体の違いをこえて、真宗であるならば、皆の課題です。
さて本派でも、「話し合い法座」が推進されていますが、「話し合い法座」
などと、祖師のお聖教にも、蓮師の御文にもない言葉をあえてそこにもって
こなくても、「信心の沙汰」で、私はいいと思うのですが。
まあそれはともかく、要するに「信心の沙汰をすべし」であります。
「信心決定の人も、細々に同行に会合の時は、
相互に信心の沙汰あらば、これ即ち真宗繁昌の根元なり」
(4帖8通)
「会合の座中に於て、信心の沙汰をすべきものなり」
(1帖12通)
信心の沙汰をすすめておられます。
顕正新聞によると、浄土真宗親鸞会(本部・富山県射水市)は、
聞法のための正本堂に続いて、信心の沙汰をする場所として、
同朋の里の建設工事を続けており、来年は、F館に着工する、
と書いてあります。
まあ、たしかに二千畳の大講堂は、毎週、数千とも1万とも言われる参詣者
が一堂に会するには必要ですが、少人数に分かれて、信心の沙汰をする
となると、広すぎますよね。
そこで、同朋の里の建物は、小部屋がたくさん設けられているようです。
(大派僧侶さん、顕正新聞に掲載されている、二千畳満堂の写真を見れば、
貴文中の「不要な箱物」などというのは、的外れな中傷だと分かりますよ)
蓮如上人は「真宗繁昌の根元」といわれた「信心の沙汰」、大いに
させていただきたいものです。これは、本願寺派、大谷派、親鸞会、など
団体の違いをこえて、真宗であるならば、皆の課題です。
さて本派でも、「話し合い法座」が推進されていますが、「話し合い法座」
などと、祖師のお聖教にも、蓮師の御文にもない言葉をあえてそこにもって
こなくても、「信心の沙汰」で、私はいいと思うのですが。
まあそれはともかく、要するに「信心の沙汰をすべし」であります。
「みほとけとともに」高木良章氏、今回の話で、気になったところです。
はじめに、正信偈の「摂取心光常照護」のお言葉を示されて、縷々述べら
れた最後に、
「如来様は、離れて見ておられるのではないのです。
私とひとつ、一体になって下さるのです。
だから、救われることに間違いないのです」
と結んでおられます。
十方衆生すべてを、摂取の心光が照護しておられるのですか。
それとも、いまだ照らされていない人も、いるのですか。
照護されている人は、おっしゃるとおり、「救われることに間違いない」
方であります。
しかし、いまだ「摂取の心光」に照護されていないとしたら、一大事では
ありませんか。
「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ
弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」
信心さだまった一念に、弥陀の心光が摂護してくださるのだと、祖師は
仰せであります。その一念で、未来永劫の浮沈が決まるのですから、この
一念について
「たのむ一念のところ、肝要なり」
と蓮如上人も仰せであります。
かんじんの、その信心さだまった一念、「たのむ一念」について、氏は
まったく述べておられない。
いえ、時間の制約があることは、承知しておりますが、「肝要」を抜か
してしまっては、浄土真宗にはならないと思うのですが、いかがでしょう?
はじめに、正信偈の「摂取心光常照護」のお言葉を示されて、縷々述べら
れた最後に、
「如来様は、離れて見ておられるのではないのです。
私とひとつ、一体になって下さるのです。
だから、救われることに間違いないのです」
と結んでおられます。
十方衆生すべてを、摂取の心光が照護しておられるのですか。
それとも、いまだ照らされていない人も、いるのですか。
照護されている人は、おっしゃるとおり、「救われることに間違いない」
方であります。
しかし、いまだ「摂取の心光」に照護されていないとしたら、一大事では
ありませんか。
「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ
弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」
信心さだまった一念に、弥陀の心光が摂護してくださるのだと、祖師は
仰せであります。その一念で、未来永劫の浮沈が決まるのですから、この
一念について
「たのむ一念のところ、肝要なり」
と蓮如上人も仰せであります。
かんじんの、その信心さだまった一念、「たのむ一念」について、氏は
まったく述べておられない。
いえ、時間の制約があることは、承知しておりますが、「肝要」を抜か
してしまっては、浄土真宗にはならないと思うのですが、いかがでしょう?