世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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先日、所用で、福井と石川の県境にある、吉崎御坊跡へ
行って来ました。ここに蓮如上人が滞在された期間は短い
ものですが、後の山科、そして大坂・石山に実現した、一大
仏法都市の、原型ともいえるものが、この北陸の地に展開
していました。
御文章にもしばしば登場する「多屋」であります。全国
から参詣したご門徒の宿泊場所であり、聞法のあと、聞いた
内容について、信心の沙汰が行われていました。
当時は、300軒ともいわれる多屋が、立ち並んでいたと
いいますから、大変な賑わいだったことでしょう。
現代の多屋、というのが、たとえばこんな感じなのでしょ
うか。写真入りで紹介されていました。「同朋の里」
行って来ました。ここに蓮如上人が滞在された期間は短い
ものですが、後の山科、そして大坂・石山に実現した、一大
仏法都市の、原型ともいえるものが、この北陸の地に展開
していました。
御文章にもしばしば登場する「多屋」であります。全国
から参詣したご門徒の宿泊場所であり、聞法のあと、聞いた
内容について、信心の沙汰が行われていました。
当時は、300軒ともいわれる多屋が、立ち並んでいたと
いいますから、大変な賑わいだったことでしょう。
現代の多屋、というのが、たとえばこんな感じなのでしょ
うか。写真入りで紹介されていました。「同朋の里」
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学生親鸞会といえば、横田慶哉に師事した京都下鴨の学生宿舎
「知四明寮」の寮生だった川畑愛義・長谷顕性・西元宗助・田村
実造・向島諦宣等が中心に結成した信仰団体でした。
横田氏も、その弟子たちも、一時期、大きな信仰のうねりを
起こしましたが、いかんせん尻すぼみで、今は跡形もありません。
なぜ失敗したのか。
かつて近角常観氏の項でも書いたように、自己の信仰体験ばかり
を語り、親鸞聖人の教えにくらかったからでありました。当時の
説教は、もちろん直接聴いたことはありませんが、聞かれた方に
尋ねますと、当時の信仰運動の指導者の話というのは、その人自身
が、救われた!助かった!という体験が強調されたとのこと。確か
に書き残されたものを読んでみても、それは伝わってくる。
いっぽうで、自己の体験はまったく語られず、「何事も何事も、
知らぬことをも、開山のめされ候ようにご沙汰候」と、すべて親鸞
聖人の教えの通りに解き明かされた蓮如上人。一代で、日本全国に
真宗を広めていかれました。
それとは正反対のことをやったのだから、やがて衰退するのは、
当然だったのでしょう。
学生親鸞会とは、現在の北陸にある「浄土真宗親鸞会」とは、
まったく関係ない団体です。そちらのほうは、こちらをどうぞ。
親鸞会
「知四明寮」の寮生だった川畑愛義・長谷顕性・西元宗助・田村
実造・向島諦宣等が中心に結成した信仰団体でした。
横田氏も、その弟子たちも、一時期、大きな信仰のうねりを
起こしましたが、いかんせん尻すぼみで、今は跡形もありません。
なぜ失敗したのか。
かつて近角常観氏の項でも書いたように、自己の信仰体験ばかり
を語り、親鸞聖人の教えにくらかったからでありました。当時の
説教は、もちろん直接聴いたことはありませんが、聞かれた方に
尋ねますと、当時の信仰運動の指導者の話というのは、その人自身
が、救われた!助かった!という体験が強調されたとのこと。確か
に書き残されたものを読んでみても、それは伝わってくる。
いっぽうで、自己の体験はまったく語られず、「何事も何事も、
知らぬことをも、開山のめされ候ようにご沙汰候」と、すべて親鸞
聖人の教えの通りに解き明かされた蓮如上人。一代で、日本全国に
真宗を広めていかれました。
それとは正反対のことをやったのだから、やがて衰退するのは、
当然だったのでしょう。
学生親鸞会とは、現在の北陸にある「浄土真宗親鸞会」とは、
まったく関係ない団体です。そちらのほうは、こちらをどうぞ。
親鸞会
東京都文京区本郷に平成14年に再オープンした求道会館は、
近角常観ゆかりの信仰の拠点でした。
近角常観といっても、最近の人はご存知ないでしょうが、明治
以降、真宗再興を願って、数々の信仰運動が起こりましたが、
中でも有名だったのが、明治3年滋賀県生まれの、近角常観氏
でした。
そして、大衆に信仰を説く場として、大正4年に建てられたの
が、この求道会館です。
学生諸氏も巻き込んで、大きなムーブメントとなったのですが、
氏の死後、急速に衰退し、この会館も50年のあいだ、さびれる
いっぽうでありました。
都の有形文化財に指定され、保護改築されて、すでに6年、
定期的に親鸞講座などひらかれてはいますが、のぞいてみると、
なんとも寂しい限り。
参考までにこちらを。親鸞講座
この衰退の原因はどこにあったのか。
それは、かつて再興の上人といわれた蓮如上人と比較すれば
明らかです。
「聖人一流のご勧化のおもむきは」「祖師聖人ご相伝一流の肝要は」
と、常に聖人の教えのみを説かれ、自分がああなった、こうなった
という自らの体験は一切語られなかった、そういう私事は一切教え
られなかったのが、蓮如上人だったのです。
それに対して、明治以来の真宗再興に立ち上がった先達たちは、
「吾が信念」とか、「私と親鸞」など、自己の信仰体験ばかりに
力が入り、聖人の教えを、徹底できませんでした。
先に、「親鸞講座」が寂しい限りといったのは、まさにこの点で
あって、「親鸞講座」とは名ばかりで、親鸞聖人の教え以外のこと
が、ほとんどの時間語られているではないですか。
本末顛倒もはなはだしい。
今一度、蓮如上人のなされたことから、学ばなければならない。
最近ふと、本郷に立ち寄ったもので、かく記しておくのであります。
近角常観ゆかりの信仰の拠点でした。
近角常観といっても、最近の人はご存知ないでしょうが、明治
以降、真宗再興を願って、数々の信仰運動が起こりましたが、
中でも有名だったのが、明治3年滋賀県生まれの、近角常観氏
でした。
そして、大衆に信仰を説く場として、大正4年に建てられたの
が、この求道会館です。
学生諸氏も巻き込んで、大きなムーブメントとなったのですが、
氏の死後、急速に衰退し、この会館も50年のあいだ、さびれる
いっぽうでありました。
都の有形文化財に指定され、保護改築されて、すでに6年、
定期的に親鸞講座などひらかれてはいますが、のぞいてみると、
なんとも寂しい限り。
参考までにこちらを。親鸞講座
この衰退の原因はどこにあったのか。
それは、かつて再興の上人といわれた蓮如上人と比較すれば
明らかです。
「聖人一流のご勧化のおもむきは」「祖師聖人ご相伝一流の肝要は」
と、常に聖人の教えのみを説かれ、自分がああなった、こうなった
という自らの体験は一切語られなかった、そういう私事は一切教え
られなかったのが、蓮如上人だったのです。
それに対して、明治以来の真宗再興に立ち上がった先達たちは、
「吾が信念」とか、「私と親鸞」など、自己の信仰体験ばかりに
力が入り、聖人の教えを、徹底できませんでした。
先に、「親鸞講座」が寂しい限りといったのは、まさにこの点で
あって、「親鸞講座」とは名ばかりで、親鸞聖人の教え以外のこと
が、ほとんどの時間語られているではないですか。
本末顛倒もはなはだしい。
今一度、蓮如上人のなされたことから、学ばなければならない。
最近ふと、本郷に立ち寄ったもので、かく記しておくのであります。