世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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中外日報8月28日号に載っている話題です。
「仏教文学先駆者の多屋頼俊著『歎異抄略註』を復刊」
多屋氏の著書について、大谷大学の石橋義秀教授が語っておられます。
「真宗学、仏教学の立場で解釈すると思想・信仰に重点が置かれてしまう。
多屋の解釈は徹底してこの先入観を排除したことにあり、厳密に解釈する
ことで著者・唯円の意図により近づくことができる」
それは、逆です。思想・信仰を徹底排除して、歎異抄を読めるはずがありません。
序文にあるではないですか。
「ひそかに愚案を廻らして、ほぼ古今を勘うるに、先師の口伝の真信に
異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うに、幸いに有縁の
知識によらずば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。まったく
自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。」
教義・信仰について書かれたのが「歎異抄」であると、著者自身がおっしゃって
いるのに、それを「徹底排除して読む」のですから、著者の意図が分かるはずが
ありません。
一例が、第七章について、
「念仏者は無碍の一道なり」
これを多屋氏は、
「念仏者は無碍の一道である、
と解釈していたのは間違いだ」
と言います。
石橋教授はここを解説して、
「念仏者は無碍の一道なりと解釈しては、
意味として通じにくい.
念仏は無碍の一道なり、と読むべきだ」
と言われるのです。
ところが反対で、そのほうが、「意味が通じない」のです。
直後に、「念仏者」を「信心の行者」と言い換えられているでしょう。
聖人直筆のお言葉では、和讃に、
「利他の信楽うる人は
願に相応するゆえに
教と仏語にしたがえば
外の雑縁さらになし」
と宗祖は仰せです。「無碍」のことを「外の雑縁さらになし」といわれ、
それは「利他の信楽うる人」のことである、と仰せです。
他力真実信心を獲得した人は、外の雑縁さらにない、無碍の一道に
出ることができる、と仰せではないですか。
「念仏者は無碍の一道なり」
弥陀に救われ念仏する者は、
一切が障りとならぬ、絶対の幸福者である
ということなのです。
多屋氏は、当時の文法にしたがって厳密に解釈した、と言われますが、
真宗教義にはしたがわれなかったのでしょうか。
文法にはしたがうが、教義にはしたがわない、そんな姿勢では「歎異抄」は
読めません。
蓮如上人が巻末に
「当流大事の聖教たるなり。
無宿善の機に於ては左右無く之を許すべからざるものなり。」
仏縁浅き者に『歎異抄』の披見を禁じられた洞察に、ただただうなづかずに
おれないではありませんか。
「仏教文学先駆者の多屋頼俊著『歎異抄略註』を復刊」
多屋氏の著書について、大谷大学の石橋義秀教授が語っておられます。
「真宗学、仏教学の立場で解釈すると思想・信仰に重点が置かれてしまう。
多屋の解釈は徹底してこの先入観を排除したことにあり、厳密に解釈する
ことで著者・唯円の意図により近づくことができる」
それは、逆です。思想・信仰を徹底排除して、歎異抄を読めるはずがありません。
序文にあるではないですか。
「ひそかに愚案を廻らして、ほぼ古今を勘うるに、先師の口伝の真信に
異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うに、幸いに有縁の
知識によらずば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。まったく
自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。」
教義・信仰について書かれたのが「歎異抄」であると、著者自身がおっしゃって
いるのに、それを「徹底排除して読む」のですから、著者の意図が分かるはずが
ありません。
一例が、第七章について、
「念仏者は無碍の一道なり」
これを多屋氏は、
「念仏者は無碍の一道である、
と解釈していたのは間違いだ」
と言います。
石橋教授はここを解説して、
「念仏者は無碍の一道なりと解釈しては、
意味として通じにくい.
念仏は無碍の一道なり、と読むべきだ」
と言われるのです。
ところが反対で、そのほうが、「意味が通じない」のです。
直後に、「念仏者」を「信心の行者」と言い換えられているでしょう。
聖人直筆のお言葉では、和讃に、
「利他の信楽うる人は
願に相応するゆえに
教と仏語にしたがえば
外の雑縁さらになし」
と宗祖は仰せです。「無碍」のことを「外の雑縁さらになし」といわれ、
それは「利他の信楽うる人」のことである、と仰せです。
他力真実信心を獲得した人は、外の雑縁さらにない、無碍の一道に
出ることができる、と仰せではないですか。
「念仏者は無碍の一道なり」
弥陀に救われ念仏する者は、
一切が障りとならぬ、絶対の幸福者である
ということなのです。
多屋氏は、当時の文法にしたがって厳密に解釈した、と言われますが、
真宗教義にはしたがわれなかったのでしょうか。
文法にはしたがうが、教義にはしたがわない、そんな姿勢では「歎異抄」は
読めません。
蓮如上人が巻末に
「当流大事の聖教たるなり。
無宿善の機に於ては左右無く之を許すべからざるものなり。」
仏縁浅き者に『歎異抄』の披見を禁じられた洞察に、ただただうなづかずに
おれないではありませんか。
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今回のみほとけとともにの担当は、大阪府正満寺(しょうまんじ)住職で、本願寺派布教使の
安方哲爾(やすかた てつじ)氏でした。
「浄土真宗のご法義は、命終わってお浄土に参らせていただく宗教です。
しかし、これが分かるかというと、分かりません。
なぜかというと、お浄土へ参るということは生きている間に経験しま
せんから」
という切り出しで、その後は、見たこともないところへ行くのは、必ずしも不安ではない、と、
母親に手を引かれて長崎へ行く4歳の息子さんの例えを出していました。
その強引な例えについても、言いたいことはマウンテンですが、何よりも真っ先に指摘して
おかねばならないのは、冒頭の上記の箇所です。
「命終わって、お浄土に参らせていただくことが、分からない」
という点です。
弥陀の本願力に救い摂られ、この世で正定聚不退転に入った人が、「死んで浄土へ参らせて
いただくことが分からない」と言われるのか。
獲信しても、浄土往生については分からないままなのか。
真実信心を獲得しても、往生は不定で、ハッキリしないとでも言われるのか。
では、教行信証の
「念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
と断言されたのは、間違いか。
「真証の証に近づく」
と確言されたのも、誤りか。
ご臨末に、
「我が歳きわまりて、安養の浄土に還帰す」
との仰せも、否定されるのか。
蓮如上人も、
「往生一定、おん助け治定」
と、信心決定して、報土往生がハッキリしたぞと繰り返しおっしゃっているが、それもすべて
間違いだと言われるのか。
冗談にも、ほどがある。いや冗談ではない、というのなら、
「真実信心を獲得しても、お浄土へ往けるかどうか分からない。往生は不定である」
と仰せられた、親鸞聖人のお言葉と根拠を、明示されたい。
平生に往生の業事成弁する、浄土真宗の教えの、根本的破壊ではないか、と思います。
みなさん、いかがですか。
あるいは、宗門の貴公子さま、またいつもコメントをくださる、布教使のみなさん、
何か内幕や、裏話でもあれば、教えてください。
安方哲爾(やすかた てつじ)氏でした。
「浄土真宗のご法義は、命終わってお浄土に参らせていただく宗教です。
しかし、これが分かるかというと、分かりません。
なぜかというと、お浄土へ参るということは生きている間に経験しま
せんから」
という切り出しで、その後は、見たこともないところへ行くのは、必ずしも不安ではない、と、
母親に手を引かれて長崎へ行く4歳の息子さんの例えを出していました。
その強引な例えについても、言いたいことはマウンテンですが、何よりも真っ先に指摘して
おかねばならないのは、冒頭の上記の箇所です。
「命終わって、お浄土に参らせていただくことが、分からない」
という点です。
弥陀の本願力に救い摂られ、この世で正定聚不退転に入った人が、「死んで浄土へ参らせて
いただくことが分からない」と言われるのか。
獲信しても、浄土往生については分からないままなのか。
真実信心を獲得しても、往生は不定で、ハッキリしないとでも言われるのか。
では、教行信証の
「念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
と断言されたのは、間違いか。
「真証の証に近づく」
と確言されたのも、誤りか。
ご臨末に、
「我が歳きわまりて、安養の浄土に還帰す」
との仰せも、否定されるのか。
蓮如上人も、
「往生一定、おん助け治定」
と、信心決定して、報土往生がハッキリしたぞと繰り返しおっしゃっているが、それもすべて
間違いだと言われるのか。
冗談にも、ほどがある。いや冗談ではない、というのなら、
「真実信心を獲得しても、お浄土へ往けるかどうか分からない。往生は不定である」
と仰せられた、親鸞聖人のお言葉と根拠を、明示されたい。
平生に往生の業事成弁する、浄土真宗の教えの、根本的破壊ではないか、と思います。
みなさん、いかがですか。
あるいは、宗門の貴公子さま、またいつもコメントをくださる、布教使のみなさん、
何か内幕や、裏話でもあれば、教えてください。
中日新聞、ほか、いくつかの地方紙で、この9月から
作家・五木寛之氏の小説「親鸞」が始まりました。
かつて自著「人生の目的」の中で、親鸞聖人のお言葉を
挙げ、論じた上で、
「人生には目的はない」
と確言された氏であり、これには宗祖を慕う多くの方が、
驚いたことでしょうが、さて、こんどはどんな親鸞像を
展開されるのか。
注視したいと思います。
作家・五木寛之氏の小説「親鸞」が始まりました。
かつて自著「人生の目的」の中で、親鸞聖人のお言葉を
挙げ、論じた上で、
「人生には目的はない」
と確言された氏であり、これには宗祖を慕う多くの方が、
驚いたことでしょうが、さて、こんどはどんな親鸞像を
展開されるのか。
注視したいと思います。