世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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本願寺派は、部数減少に悩む季刊誌「ジッポウ」について、
「現在3000部だが、何とか1万部を目標に」と、編集担当の
ダイヤモンド社に伝え、場合によっては、編集長の交代も、と、
要請しました。
既に、定価を3分の2に下げたり、編集方針をガラリと変更
したりと、手を打ってきたダイヤモンド社ですが、そもそも
たった3000部の売り上げでは、普通なら、とうに廃刊でしょう。
派外であっても、実際に部数を伸ばしている仏教雑誌もあることは
知られているので、本願寺派としても、それらを大いに研究すべき時
ではないでしょうか。
「現在3000部だが、何とか1万部を目標に」と、編集担当の
ダイヤモンド社に伝え、場合によっては、編集長の交代も、と、
要請しました。
既に、定価を3分の2に下げたり、編集方針をガラリと変更
したりと、手を打ってきたダイヤモンド社ですが、そもそも
たった3000部の売り上げでは、普通なら、とうに廃刊でしょう。
派外であっても、実際に部数を伸ばしている仏教雑誌もあることは
知られているので、本願寺派としても、それらを大いに研究すべき時
ではないでしょうか。
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一部閣僚の間には、またしても靖国神社に公式参拝をすると
明言した者があり、本願寺派として、断固抗議する旨、聞きま
した。大賛成です。そうこなければなりません。
すでにして、日本神道は、「九十五種世をけがす」「鬼神を
まつることをえざれ」と釈尊が破邪された外道であり、宗祖・
親鸞聖人は、「悲しきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す」と、嘆かれた、
邪教であります。
親鸞聖人のみ教えに信順する私たちは、「政教分離」だとか、
「公費出費」がどうだとかいう以前に、内外廃立を断固実践し
ていかねばなりません。
ですから、8月15日以外に参拝するのも、閣僚であるか否か
も関係なく、神祇不拝を徹底主張していきたいと思います。
そのために受ける非難ならば、宗祖のみあとをしたい、甘んじて
受けて行こうではありませんか。
明言した者があり、本願寺派として、断固抗議する旨、聞きま
した。大賛成です。そうこなければなりません。
すでにして、日本神道は、「九十五種世をけがす」「鬼神を
まつることをえざれ」と釈尊が破邪された外道であり、宗祖・
親鸞聖人は、「悲しきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す」と、嘆かれた、
邪教であります。
親鸞聖人のみ教えに信順する私たちは、「政教分離」だとか、
「公費出費」がどうだとかいう以前に、内外廃立を断固実践し
ていかねばなりません。
ですから、8月15日以外に参拝するのも、閣僚であるか否か
も関係なく、神祇不拝を徹底主張していきたいと思います。
そのために受ける非難ならば、宗祖のみあとをしたい、甘んじて
受けて行こうではありませんか。
今朝の朝日新聞の広告特集は、驚いた。
「人生に生きる意味もないし、生きがいもない」
一世を風靡した元仏教学者(敢えて「元」という)ひろさちやの、異常としか
思えない発言で始まる。
「仏教は、世間をばかにするためのもの」
これも、ひろさちや独特の言い回しで、「世間虚仮」を言いたいのだろうが、
前後を読むと、そうでもなさそうで、ホントに、「どうしちゃたの?」と言いたく
なってくる。
中でも、ここだ。
「仏の物差しというのは、実現は困難なもので、理想として受け止めればよい」
ははあ、要するに、ひろさちやは、大聖釈尊の教説を、一つの理想論であり、
夢物語であって、「実現は不可能」だと受け止めていたのだ。
とすれば、先の発言も、「世間は、ばかばかしいもの」だし、じゃあ、仏教で
説かれる理想はどうかというと、「どうせ実現はできないもの」であれば、何も
この世で、目指すものはなくなり、「狂って生きよ」というひろさちやの自説が
結論になってくるのだ。
しかし、絶対にこの説は間違いだ。「往生即成仏」の最終目的は、無上仏の
誓願力によって、必ず果たせるのである。彼流にいえば、「実現可能」なのだ。
「若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ」(和讃)
弥陀の命がけの本願ましませばこそ、必ずこの世で、往生一定の身になれる
時がくるのである。
ひろさちや、この仏教の真髄が、まったく分かっていないのだ。敢えて「元」
仏教学者と、揶揄した次第。
蛇足。「狂って生きよ」と口走る氏であるが、「狂う」は、放送禁止用語で、
こんな言葉を口走られたら、放送局は大弱りだ。それでだろう、最近、どこの
番組でも、氏にコメントを求めることは、極端に減ってきた。当然だろう。
「人生に生きる意味もないし、生きがいもない」
一世を風靡した元仏教学者(敢えて「元」という)ひろさちやの、異常としか
思えない発言で始まる。
「仏教は、世間をばかにするためのもの」
これも、ひろさちや独特の言い回しで、「世間虚仮」を言いたいのだろうが、
前後を読むと、そうでもなさそうで、ホントに、「どうしちゃたの?」と言いたく
なってくる。
中でも、ここだ。
「仏の物差しというのは、実現は困難なもので、理想として受け止めればよい」
ははあ、要するに、ひろさちやは、大聖釈尊の教説を、一つの理想論であり、
夢物語であって、「実現は不可能」だと受け止めていたのだ。
とすれば、先の発言も、「世間は、ばかばかしいもの」だし、じゃあ、仏教で
説かれる理想はどうかというと、「どうせ実現はできないもの」であれば、何も
この世で、目指すものはなくなり、「狂って生きよ」というひろさちやの自説が
結論になってくるのだ。
しかし、絶対にこの説は間違いだ。「往生即成仏」の最終目的は、無上仏の
誓願力によって、必ず果たせるのである。彼流にいえば、「実現可能」なのだ。
「若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ」(和讃)
弥陀の命がけの本願ましませばこそ、必ずこの世で、往生一定の身になれる
時がくるのである。
ひろさちや、この仏教の真髄が、まったく分かっていないのだ。敢えて「元」
仏教学者と、揶揄した次第。
蛇足。「狂って生きよ」と口走る氏であるが、「狂う」は、放送禁止用語で、
こんな言葉を口走られたら、放送局は大弱りだ。それでだろう、最近、どこの
番組でも、氏にコメントを求めることは、極端に減ってきた。当然だろう。