世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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「歎異抄」といえば、親鸞聖人が語られたことを、お弟子の唯円が
書き記したものと言われています。
ということは、当然、親鸞聖人も、唯円になら、このようにいえば
分かってくれるだろう、と思われて、お話しされたことでしょう。
今さら説明の必要のないことは、省略もされたでしょうし、唯円も
一を聞いて十を知る、ひとこと聞けばあとは理解できる、ということ
もあったと思われます。
世間でも、ツーカーの仲、ということもあれば、阿吽の呼吸、とも
言われます。
これを、第三者が聞けば、どうか。あるいは、その記録を読めば?
これまた当然、分からないところもあれば、誤解するところも出て
くるでしょう。とんでもない、反対の意味で、受け取ってしまうかも
知れません。
さすれば、本来、親鸞聖人と唯円大徳との間でのお話だったのを、
第三者が読んでいるのであり、時には、門外漢や、仏教の初心者が、
目にしているのが、今日の歎異抄ブーム、と言えましょう。
これでは、誤解、曲解を生むのは、道理です。
その点、省略されている箇所、説明を加えねばならない部分を、
きちんと加筆しての解説が、不可欠になります。
まして、内容が、不可称・不可説・不可思議の、他力真実信心なら
なおさらであります。
今日の、歎異抄ブームに、ちょっと想ったことです。
書き記したものと言われています。
ということは、当然、親鸞聖人も、唯円になら、このようにいえば
分かってくれるだろう、と思われて、お話しされたことでしょう。
今さら説明の必要のないことは、省略もされたでしょうし、唯円も
一を聞いて十を知る、ひとこと聞けばあとは理解できる、ということ
もあったと思われます。
世間でも、ツーカーの仲、ということもあれば、阿吽の呼吸、とも
言われます。
これを、第三者が聞けば、どうか。あるいは、その記録を読めば?
これまた当然、分からないところもあれば、誤解するところも出て
くるでしょう。とんでもない、反対の意味で、受け取ってしまうかも
知れません。
さすれば、本来、親鸞聖人と唯円大徳との間でのお話だったのを、
第三者が読んでいるのであり、時には、門外漢や、仏教の初心者が、
目にしているのが、今日の歎異抄ブーム、と言えましょう。
これでは、誤解、曲解を生むのは、道理です。
その点、省略されている箇所、説明を加えねばならない部分を、
きちんと加筆しての解説が、不可欠になります。
まして、内容が、不可称・不可説・不可思議の、他力真実信心なら
なおさらであります。
今日の、歎異抄ブームに、ちょっと想ったことです。
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11.葬式・年忌法要は
死者のためにならないって?
それホント?
葬式や、法事が、死人を幸せにするのだ、という考えは、世間の
常識となっています。
ところが、第五章では、
「親鸞は、亡き父母の追善供養のために、念仏一遍、いまだかつて
称えたことがない」
と、言い切っておられます。
無論これは、念仏だけのことではありません。亡き人を幸せにし
ようとする読経、儀式、すべての仏事を、「念仏」で総称されての
ことです。
誰よりも亡き父母を慕われた親鸞聖人が、しかし、父母の追善供
養をいっさいなされなかった、とは、どういうことか。
その聖人の厳禁された追善供養を勧める言動をとった存覚は、
父・覚如上人によって勘当までされているのです。
いかに、親鸞聖人が、先祖の追善供養を徹底排除されたか、明ら
かでしょう。
それは、なぜか?
では、葬儀や法要は、全く無意味か?
いえ、それを活かす道も、また、詳述されています。
死者のためにならないって?
それホント?
葬式や、法事が、死人を幸せにするのだ、という考えは、世間の
常識となっています。
ところが、第五章では、
「親鸞は、亡き父母の追善供養のために、念仏一遍、いまだかつて
称えたことがない」
と、言い切っておられます。
無論これは、念仏だけのことではありません。亡き人を幸せにし
ようとする読経、儀式、すべての仏事を、「念仏」で総称されての
ことです。
誰よりも亡き父母を慕われた親鸞聖人が、しかし、父母の追善供
養をいっさいなされなかった、とは、どういうことか。
その聖人の厳禁された追善供養を勧める言動をとった存覚は、
父・覚如上人によって勘当までされているのです。
いかに、親鸞聖人が、先祖の追善供養を徹底排除されたか、明ら
かでしょう。
それは、なぜか?
では、葬儀や法要は、全く無意味か?
いえ、それを活かす道も、また、詳述されています。
10.「仏」知らずが
「ほとけ」間違いを犯す元凶
第四章に、
「浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもって
思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり」
とおっしゃっています。
これをそのまま読むと、「急ぎ仏になりて」というところ、「早く、
死んで仏になって」と読めませんか?
すると「死に急いで」ということになり、「早く死んで仏になりな
さいよ」と勧められたかのように、思えます。
そんなハズは、ない!と思うのですが、では、このお言葉の真意は
何処にありや?
聖人九十年の生涯にもふれながら、細説されています。
「ほとけ」間違いを犯す元凶
第四章に、
「浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもって
思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり」
とおっしゃっています。
これをそのまま読むと、「急ぎ仏になりて」というところ、「早く、
死んで仏になって」と読めませんか?
すると「死に急いで」ということになり、「早く死んで仏になりな
さいよ」と勧められたかのように、思えます。
そんなハズは、ない!と思うのですが、では、このお言葉の真意は
何処にありや?
聖人九十年の生涯にもふれながら、細説されています。