世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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「みほとけとともに 西本願寺の時間」では、先週に続いて、
富山県長福寺住職で 本願寺派布教使の、日南 淨円 (ひなみ
じょうえん)氏のトンデモ説教が炸裂しました。
そのゴ尊顔は、こちら。
またしても、親鸞聖人のお言葉からではなく、ご門徒で、
93歳で亡くなったカズエさんのお話から、スタートです。
庭にあった松の木がどうのこうとか、ある先生の「日本人
の精神的土壌」の話やら、出すに困って金子大栄が「人生、
やり直しはできないが、見直すことはできる」と言ったの
まで引っ張り出して、何が言いたいのか、意味不明の話が
延々と続きました。
最後に、ようやく親鸞聖人のお言葉を出したのが、
「如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり」 のご和讃でした。
しかし!これを釈して、こうのたまったのです。
「悩み苦しみを持つ私だからこそ、尊い如来様の大悲の
お名告りが届けられているのです」
あのねェ、「大悲心を成就された」ことと、それが私に
届いたことと、同じですか?
名号成就は十劫の昔でも、それがただちに私に至り届いた
ことと、同じなのですか?
西本願寺のホームページにもありますが、あなたは、
布教伝道の目的について、
「南無阿弥陀仏の本願名号のいわれを聞きひらき、
信心獲得する聴聞の場です。
その目的を実現していくようにこころがけねば
なりません。」
と書かれているのを、ご存知ないのか。
布教伝道の目的を知らぬ布教使、これじゃ笑い話にも
なりゃしません。
十劫の昔、名号成就とともに、すでに私たちは助かって
しまっているのならば、「信心獲得する」必要もないし、
そもそも「聴聞」さえ、必要なくなるじゃありませんか。
ならば、蓮如上人が
「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間
地獄に堕在すべきものなり」
と仰せられ、
「火の中を 分けても法は 聞くべきに
雨風雪は もののかずかは」
「世間の仕事を すてて聞け」
と、手に汗握ってご教化くだされたのは、なぜですか。
聞法など、必要ないということになりますよ。
となれば、「説教」も「法話」も「学習会」も「ラジオ
法話」も、なーんにも必要ない。教団も、不要、という
ことになりますよ。
先のリンクをたどって、こんな教団不要論をぶち上げた
エラいセンセイの、ゴ尊顔を、どーか拝してください。
こんな勉強のページがありましたので、ご参考まで。
「信心獲得しようと真剣に求めるのは間違いか」
富山県長福寺住職で 本願寺派布教使の、日南 淨円 (ひなみ
じょうえん)氏のトンデモ説教が炸裂しました。
そのゴ尊顔は、こちら。
またしても、親鸞聖人のお言葉からではなく、ご門徒で、
93歳で亡くなったカズエさんのお話から、スタートです。
庭にあった松の木がどうのこうとか、ある先生の「日本人
の精神的土壌」の話やら、出すに困って金子大栄が「人生、
やり直しはできないが、見直すことはできる」と言ったの
まで引っ張り出して、何が言いたいのか、意味不明の話が
延々と続きました。
最後に、ようやく親鸞聖人のお言葉を出したのが、
「如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり」 のご和讃でした。
しかし!これを釈して、こうのたまったのです。
「悩み苦しみを持つ私だからこそ、尊い如来様の大悲の
お名告りが届けられているのです」
あのねェ、「大悲心を成就された」ことと、それが私に
届いたことと、同じですか?
名号成就は十劫の昔でも、それがただちに私に至り届いた
ことと、同じなのですか?
西本願寺のホームページにもありますが、あなたは、
布教伝道の目的について、
「南無阿弥陀仏の本願名号のいわれを聞きひらき、
信心獲得する聴聞の場です。
その目的を実現していくようにこころがけねば
なりません。」
と書かれているのを、ご存知ないのか。
布教伝道の目的を知らぬ布教使、これじゃ笑い話にも
なりゃしません。
十劫の昔、名号成就とともに、すでに私たちは助かって
しまっているのならば、「信心獲得する」必要もないし、
そもそも「聴聞」さえ、必要なくなるじゃありませんか。
ならば、蓮如上人が
「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間
地獄に堕在すべきものなり」
と仰せられ、
「火の中を 分けても法は 聞くべきに
雨風雪は もののかずかは」
「世間の仕事を すてて聞け」
と、手に汗握ってご教化くだされたのは、なぜですか。
聞法など、必要ないということになりますよ。
となれば、「説教」も「法話」も「学習会」も「ラジオ
法話」も、なーんにも必要ない。教団も、不要、という
ことになりますよ。
先のリンクをたどって、こんな教団不要論をぶち上げた
エラいセンセイの、ゴ尊顔を、どーか拝してください。
こんな勉強のページがありましたので、ご参考まで。
「信心獲得しようと真剣に求めるのは間違いか」
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宗門長期計画推進協議会の第三部会で、話し合われたことです。
新しい門徒を開拓するための事業の一環として、これまで浄土真宗
に関心のなかった人と縁を結ぶためのインターネットのポータルサイト
事業が計画され、試験的に運用が始まっています。
しかし、昨秋の宗会で「説明が不十分だ」と問題視され、今月の宗会
において、十分な説明を行なうと、総局は約束していました。
今回の部会で、「新規開拓は、ネット事業よりも、従来の都市開教に
しっかりと軸足をすえるべき」との方針が示されました。
あたりまえだ!の声が、聞こえてきそうですね。
確かに、マスコミや、ネットを使っての布教は、派手であり、一度に
多くの人にアプローチできるので、つい飛びつきやすいのですが、一方、
実際に布教戦線におられる方はお分かりでしょうが、み教えの徹底と
なると、一対一の、ひざづめ談判が、基本です。説く者も、聞く者も、
命がけでなければ、そこに火花は散りません。
もちろん、出会って、話をする、一つ前の段階として、ネットの活用は
必要でしょうが、そこに重点を置くべきでないのは、当然ことです。
これは、言われているような「コストがかかるから」という問題では
なく、布教の本質に関わる問題なのです。
ただ、コストについてひとこと言えば、「ポータルサイト、やらない?」
「ホームページ、制作代行しますよ」と、甘い誘いで近づき、たいした
サイトを構築するでもないのに、べらぼうな金額を「制作費」として
ぼったくる事業者がありますので、注意が必要です。
宗門でも、かつてそういうワナに嵌ったこと、あったんじゃないですか?
新しい門徒を開拓するための事業の一環として、これまで浄土真宗
に関心のなかった人と縁を結ぶためのインターネットのポータルサイト
事業が計画され、試験的に運用が始まっています。
しかし、昨秋の宗会で「説明が不十分だ」と問題視され、今月の宗会
において、十分な説明を行なうと、総局は約束していました。
今回の部会で、「新規開拓は、ネット事業よりも、従来の都市開教に
しっかりと軸足をすえるべき」との方針が示されました。
あたりまえだ!の声が、聞こえてきそうですね。
確かに、マスコミや、ネットを使っての布教は、派手であり、一度に
多くの人にアプローチできるので、つい飛びつきやすいのですが、一方、
実際に布教戦線におられる方はお分かりでしょうが、み教えの徹底と
なると、一対一の、ひざづめ談判が、基本です。説く者も、聞く者も、
命がけでなければ、そこに火花は散りません。
もちろん、出会って、話をする、一つ前の段階として、ネットの活用は
必要でしょうが、そこに重点を置くべきでないのは、当然ことです。
これは、言われているような「コストがかかるから」という問題では
なく、布教の本質に関わる問題なのです。
ただ、コストについてひとこと言えば、「ポータルサイト、やらない?」
「ホームページ、制作代行しますよ」と、甘い誘いで近づき、たいした
サイトを構築するでもないのに、べらぼうな金額を「制作費」として
ぼったくる事業者がありますので、注意が必要です。
宗門でも、かつてそういうワナに嵌ったこと、あったんじゃないですか?
これは、実話です。
僧侶ばかりが集まって、お正月、気持ちよく、一献かたむけて
いたときの会話です。
「近頃は、医学が進歩してのお、弱ったもんや」
「葬式も、減ってしもうて」
「ほんま、なかなか死なんようになった。昔なら、とうに死んで
おっておかしくないもんでも、長生きしよる」
「そうはゆーても、あんたんところ、門徒ぎょうさんおるから、
楽やろう」
「んなことないわ。ウチは300軒ほどしかなくて、弱っとる」
「ウチなんか100軒もないんやで。これじゃ、とても、やって
いけんわい」
あらあら、御門徒を、まるで財産か何かのように、多いだの、
少ないだの、言い合っています。
如来聖人より、まちがいなくお浄土まで導けよ、と、お預かり
している方々だから、御の字をつけて「御門徒」と言われます。
私の力で、集まっておられるのでない、すべては、阿弥陀如来
の御念力であり、親鸞聖人の御徳によって、集まられた皆さん。
葬式が少なくなっただの、何だのと、門徒を心で殺している、
とんでもない大罪を、自覚しなければなりません。
「まことにあ一人なりとも、信をとるべきならば、身を捨てよ。
それはすたらぬ」(蓮如上人)
のご金言を、いくたびも拝読せねばなりません。
僧侶ばかりが集まって、お正月、気持ちよく、一献かたむけて
いたときの会話です。
「近頃は、医学が進歩してのお、弱ったもんや」
「葬式も、減ってしもうて」
「ほんま、なかなか死なんようになった。昔なら、とうに死んで
おっておかしくないもんでも、長生きしよる」
「そうはゆーても、あんたんところ、門徒ぎょうさんおるから、
楽やろう」
「んなことないわ。ウチは300軒ほどしかなくて、弱っとる」
「ウチなんか100軒もないんやで。これじゃ、とても、やって
いけんわい」
あらあら、御門徒を、まるで財産か何かのように、多いだの、
少ないだの、言い合っています。
如来聖人より、まちがいなくお浄土まで導けよ、と、お預かり
している方々だから、御の字をつけて「御門徒」と言われます。
私の力で、集まっておられるのでない、すべては、阿弥陀如来
の御念力であり、親鸞聖人の御徳によって、集まられた皆さん。
葬式が少なくなっただの、何だのと、門徒を心で殺している、
とんでもない大罪を、自覚しなければなりません。
「まことにあ一人なりとも、信をとるべきならば、身を捨てよ。
それはすたらぬ」(蓮如上人)
のご金言を、いくたびも拝読せねばなりません。