世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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浄土真宗の仏光寺派で、「歎異抄」を、所依の聖教につぐ書物
として扱ってはどうかという案が浮上しているようです。
そうなれば、説教の時の讃題にも使えるし、ということもある
とかで、布教の現場では、要望も高いとか。
しかしいっぽうで、「歎異抄」については、蓮如上人が、
「右、この聖教は、当流大事の聖教なり。
無宿善の者には、左右なく見せてはならない」
と奥書され、長らく封印されてきた書でもあります。
それを、そう軽々に扱ってもよいものか、どうか、という議論は
大いに必要でしょう。
そういえば、3月出版予定のこの本でも、その危険性が指摘されて
いるようです。危険性をよく知った上で、正しく親鸞聖人の教えを
知った上で、「歎異抄」も拝読せなばならないでしょう。
---------------------------------------------------------------
以下は、1月19日の再掲です。
「歎異抄をひらく」(高森顕徹著)が、
今年3月に発刊されることが決定しました。
以下は、その紹介が載っているブログです。
全巻読破チャレンジ中!
出版社へのリンクも、張られています。
として扱ってはどうかという案が浮上しているようです。
そうなれば、説教の時の讃題にも使えるし、ということもある
とかで、布教の現場では、要望も高いとか。
しかしいっぽうで、「歎異抄」については、蓮如上人が、
「右、この聖教は、当流大事の聖教なり。
無宿善の者には、左右なく見せてはならない」
と奥書され、長らく封印されてきた書でもあります。
それを、そう軽々に扱ってもよいものか、どうか、という議論は
大いに必要でしょう。
そういえば、3月出版予定のこの本でも、その危険性が指摘されて
いるようです。危険性をよく知った上で、正しく親鸞聖人の教えを
知った上で、「歎異抄」も拝読せなばならないでしょう。
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以下は、1月19日の再掲です。
「歎異抄をひらく」(高森顕徹著)が、
今年3月に発刊されることが決定しました。
以下は、その紹介が載っているブログです。
全巻読破チャレンジ中!
出版社へのリンクも、張られています。
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今朝の「東本願寺の時間」では、延々と、シンセサイザーの演奏が
流れ、「うちのお寺では、誰々さんの作曲の音楽を流し、なんたら、
かんたら」と、説明が続いていました。
「東本願寺の時間」 これって音楽番組か何かでした??
浄土真宗の教義とはかけ離れた内容じゃないかと、前々から思って
いましたが、教育現場での話やら、介護が大変だとか、環境問題の話
やらに続いて、今度は、音楽番組に衣替えか、ってな感じです。
もう、この番組を聴いて、あれこれ批評するの、やめよかなあ、と
思わせるにじゅうぶんな内容でした。
これよりは、「みほとけとともに」のほうが、まだ、ね。
流れ、「うちのお寺では、誰々さんの作曲の音楽を流し、なんたら、
かんたら」と、説明が続いていました。
「東本願寺の時間」 これって音楽番組か何かでした??
浄土真宗の教義とはかけ離れた内容じゃないかと、前々から思って
いましたが、教育現場での話やら、介護が大変だとか、環境問題の話
やらに続いて、今度は、音楽番組に衣替えか、ってな感じです。
もう、この番組を聴いて、あれこれ批評するの、やめよかなあ、と
思わせるにじゅうぶんな内容でした。
これよりは、「みほとけとともに」のほうが、まだ、ね。
今朝のラジオ「みほとけとともに 西本願寺の時間」では、
愛媛県の成川了真氏が、「仏は常におわします」と題して話を
していましたが、完全な十劫安心で、いかにもという内容でした。
中でも極めつけは、このくだりでした。
「お念仏は、阿弥陀さまの必ず救う、決して捨てることはない
摂取不捨というお慈悲のはたらきです。既にこの私を包み込
んでいる阿弥陀さまのはたらきの真っ只中にいるのです」
念仏称える人すべては、既に阿弥陀仏の摂取不捨の救いに
あっている人、というとんでもない話です。
ならばなぜ、宗祖は「火の中分けても仏法を聞くべし」と仰った
のか。
例によって今回も、親鸞聖人のお言葉は全く出さず、大江淳誠と
いう僧侶の言葉をマクラにふって、わが宗門の布教使なんて、所詮
この程度かと分かる、典型的な不浄説教でした。
愛媛県の成川了真氏が、「仏は常におわします」と題して話を
していましたが、完全な十劫安心で、いかにもという内容でした。
中でも極めつけは、このくだりでした。
「お念仏は、阿弥陀さまの必ず救う、決して捨てることはない
摂取不捨というお慈悲のはたらきです。既にこの私を包み込
んでいる阿弥陀さまのはたらきの真っ只中にいるのです」
念仏称える人すべては、既に阿弥陀仏の摂取不捨の救いに
あっている人、というとんでもない話です。
ならばなぜ、宗祖は「火の中分けても仏法を聞くべし」と仰った
のか。
例によって今回も、親鸞聖人のお言葉は全く出さず、大江淳誠と
いう僧侶の言葉をマクラにふって、わが宗門の布教使なんて、所詮
この程度かと分かる、典型的な不浄説教でした。