世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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27日朝の、ラジオ番組「東本願寺の時間」は、いよいよもって
意味不明でした。
タイトルの「今、いのちが、あなたを生きている」からして、
何のことかと、首をひねりますが、その後の話は、意味不明の
連続でした。
「本尊とは、本当に尊いこと、であって、尊ぶもの、ではない」
これって、何が言いたいか、誰か分かります?
偶像崇拝をいましめ、目に見えぬ真理を知るべし、みたいな
非常に浅い、薄っぺらな主張で、何より、誰にも、何も伝わらぬ
筋立てでした。
「うちでは、まだ誰も死んでいないので、仏壇はありません、
という人があるが、仏壇が、先祖をまつる先祖壇になっていま
せんか」というくだりも、じゃあ、仏壇と、先祖壇と、どう違う
のか、何の説明もありません。
意味不明は、まだまだマウンテンでしたが、このくらいにして
おきましょう。
ああ、書いていても、頭が、クラクラしてきます。
意味不明でした。
タイトルの「今、いのちが、あなたを生きている」からして、
何のことかと、首をひねりますが、その後の話は、意味不明の
連続でした。
「本尊とは、本当に尊いこと、であって、尊ぶもの、ではない」
これって、何が言いたいか、誰か分かります?
偶像崇拝をいましめ、目に見えぬ真理を知るべし、みたいな
非常に浅い、薄っぺらな主張で、何より、誰にも、何も伝わらぬ
筋立てでした。
「うちでは、まだ誰も死んでいないので、仏壇はありません、
という人があるが、仏壇が、先祖をまつる先祖壇になっていま
せんか」というくだりも、じゃあ、仏壇と、先祖壇と、どう違う
のか、何の説明もありません。
意味不明は、まだまだマウンテンでしたが、このくらいにして
おきましょう。
ああ、書いていても、頭が、クラクラしてきます。
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西本願寺・聞法会館イベント予定を見て、仰天です。
2月16日、天下一品グループの代表を呼んで、「起業戦略」を聞く、
というのです。これ、正気ですか?今風にいえば、「マジ!?」
創価学会のラジオ番組を聴いてみてください。
そこに、大スポンサーとして「天下一品」が入っているでしょ。
ナンミョー企業のトップに、何を聞くというのですか。
しかも、場所は、「聞法会館」ですよ!
宗祖親鸞聖人の教えを聞かせていただくため、浄財で建立されたのに。
そこで、何が悲しくて、「起業戦略」の話なんか聞かにゃならんの?
大遠忌の募財に「目的外に使われるから、出したくない」という末寺が
あるのも、むべなるかな、という感じです。
さて「金や物のない人は布施はできないのか」について、お勉強のページです。
2月16日、天下一品グループの代表を呼んで、「起業戦略」を聞く、
というのです。これ、正気ですか?今風にいえば、「マジ!?」
創価学会のラジオ番組を聴いてみてください。
そこに、大スポンサーとして「天下一品」が入っているでしょ。
ナンミョー企業のトップに、何を聞くというのですか。
しかも、場所は、「聞法会館」ですよ!
宗祖親鸞聖人の教えを聞かせていただくため、浄財で建立されたのに。
そこで、何が悲しくて、「起業戦略」の話なんか聞かにゃならんの?
大遠忌の募財に「目的外に使われるから、出したくない」という末寺が
あるのも、むべなるかな、という感じです。
さて「金や物のない人は布施はできないのか」について、お勉強のページです。
「みほとけとともに」では「親のよび声」と題して、本願寺派布教使の
成川 了真 (なるかわ りょうしん)氏の話でした。
親の子によびかける姿から、阿弥陀仏の親心、慈悲の心を知る、という
話でした。まあ、ただ聞けば、ほのぼのとした、親と子、おじいちゃんと
孫との話ですが、問題は、
「親の慈悲と、仏の慈悲とでは、全く異なる」
という重要な点が、全く無視されていることです。
たしかに、この世の人間の慈悲の中では、親の子に対する慈悲ほど、
献身的で、ひたむきで、気高いものはないでしょう、
しかし、あくまでそれは「人間の慈悲」でありますから、仏さまの
慈悲、なかんずく、本師本仏の阿弥陀仏の大慈悲とは、全く異なるの
であります。
たとえば、阿弥陀仏の大慈悲は、無量寿といわれるように永続する
慈悲ですが、悲しいかな、人間の慈悲は、そうではありません。
ある方から聞きましたが、娘を亡くしたお母さんが「一緒に死んで
やりたい」とさえ思ったと言われます。ところが、それから二十年、
「今頃、嫁にやらねばならんとしたら、だいぶかかったやろうなあ。
死んでくれておってよかった」
と言われたそうです。
いいえ、そのお母さんを、責めているんではありません。私など、
もっと浅ましい、続かない慈悲しかないのですから。
そんな限界をもった人間の慈悲を、阿弥陀仏の慈悲と同じだなどと
どうして言えるでしょう。もし、「分かりやすく、譬えとして出した
のだ」というのであれば、その譬えで合わない部分は、ちゃんと説明
しておかないと、大変な誤解を与えることになります。
どうも、成川氏、そのへんは、全く分かっておられないようで。
今回は、この点だけ、指摘しておきます。
成川 了真 (なるかわ りょうしん)氏の話でした。
親の子によびかける姿から、阿弥陀仏の親心、慈悲の心を知る、という
話でした。まあ、ただ聞けば、ほのぼのとした、親と子、おじいちゃんと
孫との話ですが、問題は、
「親の慈悲と、仏の慈悲とでは、全く異なる」
という重要な点が、全く無視されていることです。
たしかに、この世の人間の慈悲の中では、親の子に対する慈悲ほど、
献身的で、ひたむきで、気高いものはないでしょう、
しかし、あくまでそれは「人間の慈悲」でありますから、仏さまの
慈悲、なかんずく、本師本仏の阿弥陀仏の大慈悲とは、全く異なるの
であります。
たとえば、阿弥陀仏の大慈悲は、無量寿といわれるように永続する
慈悲ですが、悲しいかな、人間の慈悲は、そうではありません。
ある方から聞きましたが、娘を亡くしたお母さんが「一緒に死んで
やりたい」とさえ思ったと言われます。ところが、それから二十年、
「今頃、嫁にやらねばならんとしたら、だいぶかかったやろうなあ。
死んでくれておってよかった」
と言われたそうです。
いいえ、そのお母さんを、責めているんではありません。私など、
もっと浅ましい、続かない慈悲しかないのですから。
そんな限界をもった人間の慈悲を、阿弥陀仏の慈悲と同じだなどと
どうして言えるでしょう。もし、「分かりやすく、譬えとして出した
のだ」というのであれば、その譬えで合わない部分は、ちゃんと説明
しておかないと、大変な誤解を与えることになります。
どうも、成川氏、そのへんは、全く分かっておられないようで。
今回は、この点だけ、指摘しておきます。