世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
本山の聞法会館からして、コンサートや、パーティ、落語会などに
フル回転(!?)していますから、地方の末寺でも、コンサートなどで
忙しいようです。
特に最近の本願寺新報の写真入りの地方発ニュースに、その傾向が
顕著です。本堂をステージに、境内を客席にして、ロックを聞かせて
いる写真なんか、情けなくて、見ていられません。
11月1日号 7頁 「本堂がステージです」
(大分県臼杵市 尊形寺副住職 流智道より)
10月20日号 8頁 「お寺座ライブ」
(富山県黒部市 善巧寺 雪山俊隆住職)
10月10日号 8頁 「本堂の雰囲気を」
(岐阜県岐阜市 専応寺 高賀慧潤住職)
9月10日号 1頁 「築地別院 他力本願でいこう コンサート」
(東京・築地本願寺 松原功人輪番)
いつから、寺は、公民館やライブハウスのかわりをするようになったのか。
御門徒の皆様が「どうか、宗祖親鸞聖人の教えを、聞かせて頂きたい」と
浄財を集めて建立されたのが、お寺のはず。
そのお寺で、かんじんの説法はなされずに、ロックコンサートが開かれ、
僧侶はその練習に時間を費やし、なおいっそう、布教伝道の時間は削られ
るいっぽうです。
また、地方の住職も、写真入りで、そんなニュースを恥ずかしげもなく
編集部に送ってくるのは、どうしたことか。
これをまた編集部が、臆面もなく、宗派の機関紙に載せて、平気だとは
どうなっているのか。
宗制に明記されているはずです。
本派は、親鸞聖人の教えを伝道する教団であると。
フル回転(!?)していますから、地方の末寺でも、コンサートなどで
忙しいようです。
特に最近の本願寺新報の写真入りの地方発ニュースに、その傾向が
顕著です。本堂をステージに、境内を客席にして、ロックを聞かせて
いる写真なんか、情けなくて、見ていられません。
11月1日号 7頁 「本堂がステージです」
(大分県臼杵市 尊形寺副住職 流智道より)
10月20日号 8頁 「お寺座ライブ」
(富山県黒部市 善巧寺 雪山俊隆住職)
10月10日号 8頁 「本堂の雰囲気を」
(岐阜県岐阜市 専応寺 高賀慧潤住職)
9月10日号 1頁 「築地別院 他力本願でいこう コンサート」
(東京・築地本願寺 松原功人輪番)
いつから、寺は、公民館やライブハウスのかわりをするようになったのか。
御門徒の皆様が「どうか、宗祖親鸞聖人の教えを、聞かせて頂きたい」と
浄財を集めて建立されたのが、お寺のはず。
そのお寺で、かんじんの説法はなされずに、ロックコンサートが開かれ、
僧侶はその練習に時間を費やし、なおいっそう、布教伝道の時間は削られ
るいっぽうです。
また、地方の住職も、写真入りで、そんなニュースを恥ずかしげもなく
編集部に送ってくるのは、どうしたことか。
これをまた編集部が、臆面もなく、宗派の機関紙に載せて、平気だとは
どうなっているのか。
宗制に明記されているはずです。
本派は、親鸞聖人の教えを伝道する教団であると。
PR
先週末の、「みほとけとともに 西本願寺の時間」、聞かれましたか?
その前の週、「真実信心とは、阿弥陀様のおはたらきに、こころあたり
ある生活を送ること」という、トンデモ説教を炸裂させた、兵庫県廣宣寺
の住職にして、本願寺派布教使、門中浄光氏。今週も、やってくれました。
親鸞聖人とは、
「阿弥陀様のおはたらきにこころあたりのある生活を送られた人です」
と、またまた、のたまったのです。
だからあ、そんなこと、宗祖は、どこにおっしゃっているのですか。
あなたが勝手に言っているだけでは、ないのですか。
もっとスゴイのは、最後のくだりです。
「報恩講とは、親鸞さまのお人柄を通し、私自身の無明(煩悩の闇)に
気付かせていただき、一度ならず、幾重にも幾重にものお育てにあずかる
法要なのです」
おやおや?こんなこと言い出しましたね。
私自身の無明に気付く。
気付いて、どうするのですか?
明確にするためには、その「無明」の意味を明確にしておかねばなら
ないでしょう。
「無明長夜の闇」と和讃に宗祖が仰せられた、本願疑惑心、疑情のことか。
「無明煩悩しげくして」と仰せられた、百八の煩悩のことか。
もし、前者の義であるならば、その気付いた本願疑惑心を、どうすれば
よいのか。
もし、後者の義であるならば、前者の「無明」は、すでに晴れている
と言われるのか。だとすると、「苦しみ悩む人々」と言われているのと
合いません。なぜなら、
「還来生死輪転家 決以疑情為所止」と正信偈に仰せの通り、全人類の
「苦しみ悩む」根源は、疑情以外にない、と祖師は明言されています。
現に苦しみ悩んでいるのですから、疑情は晴れていないことになる。
さすれば、どうしても、前者の「疑情」「本願疑惑心」の義です。
そこで、分からなくなるのです。
「気付いた無明を、どうすればよいのですか」
おそらくは、後者の義だと、言いたいのでしょうが、上述のとおり、
すでに詰んでいるんですけどね。門中さんじゃ、分からないでしょうが。
この辺、宗門の貴公子、吉村隆真師だったら、読み解いていただけると
期待しています。
その前の週、「真実信心とは、阿弥陀様のおはたらきに、こころあたり
ある生活を送ること」という、トンデモ説教を炸裂させた、兵庫県廣宣寺
の住職にして、本願寺派布教使、門中浄光氏。今週も、やってくれました。
親鸞聖人とは、
「阿弥陀様のおはたらきにこころあたりのある生活を送られた人です」
と、またまた、のたまったのです。
だからあ、そんなこと、宗祖は、どこにおっしゃっているのですか。
あなたが勝手に言っているだけでは、ないのですか。
もっとスゴイのは、最後のくだりです。
「報恩講とは、親鸞さまのお人柄を通し、私自身の無明(煩悩の闇)に
気付かせていただき、一度ならず、幾重にも幾重にものお育てにあずかる
法要なのです」
おやおや?こんなこと言い出しましたね。
私自身の無明に気付く。
気付いて、どうするのですか?
明確にするためには、その「無明」の意味を明確にしておかねばなら
ないでしょう。
「無明長夜の闇」と和讃に宗祖が仰せられた、本願疑惑心、疑情のことか。
「無明煩悩しげくして」と仰せられた、百八の煩悩のことか。
もし、前者の義であるならば、その気付いた本願疑惑心を、どうすれば
よいのか。
もし、後者の義であるならば、前者の「無明」は、すでに晴れている
と言われるのか。だとすると、「苦しみ悩む人々」と言われているのと
合いません。なぜなら、
「還来生死輪転家 決以疑情為所止」と正信偈に仰せの通り、全人類の
「苦しみ悩む」根源は、疑情以外にない、と祖師は明言されています。
現に苦しみ悩んでいるのですから、疑情は晴れていないことになる。
さすれば、どうしても、前者の「疑情」「本願疑惑心」の義です。
そこで、分からなくなるのです。
「気付いた無明を、どうすればよいのですか」
おそらくは、後者の義だと、言いたいのでしょうが、上述のとおり、
すでに詰んでいるんですけどね。門中さんじゃ、分からないでしょうが。
この辺、宗門の貴公子、吉村隆真師だったら、読み解いていただけると
期待しています。
とかく現代人は、仏教と縁がない、といわれます。
ほんとうでしょうか?
さりげない、ちょっとした話題から、仏法に耳を傾けてほしい、
そんな願いを感じさせるのが、宗門の貴公子・吉村隆真師の著書、
「現代法話集 法話が好きになる本」(探究社840円)です。
すでに刊行されて月日はたつのですが、皆さん、お読みになられ
ましたか。
たとえば、こんなお話も・・・。(要約)
「人生の安全運転
一番事故を起こしやすいのは、だろう運転。
人生でも、まさか今日は死なないだろう、というだろう運転で
生きてはいないだろうか。
そんな日常に、突然自己の死が訪れたら、まさに人生の大事故。
安全な運転は、かもしれない運転。
でも、かもしれないで生きていく人生は、大変不安な人生」
ここから、本文を転載させて頂きます。
「まさに、阿弥陀さまが見抜いてくださったのは、そこだったのです。
本来、いつ終わるかもしれないと、びくびく、おどおどしながら生き
ていくしかなかった私のいのちを、阿弥陀さまはしっかりと抱きとめ
た上で、「あなたが、いつ・どこで・どのようなかたちでいのち尽き
たとしても、そのいのちすでに私が引き受けてあるのですよ。だから
あなたは安心して、せっかくいただいているいのちを、いま・ここで、
精いっぱい輝かせて生き抜きなさい。そして、やがてそのいのち尽き
たならば、わたしと共に真実のさとりの世界へかえろう」と、常によ
び続けておられるのです。
そのよび声こそが、「南無阿弥陀仏」として、いま、この私に、
至り届いているのです」
ここで一つ、疑問がわきます。
阿弥陀仏の呼び声が至り届いた後も、なお、びくびく、おどおど
しながら私たちが生きていかねばならないのは、なぜでしょうか。
ほんとうでしょうか?
さりげない、ちょっとした話題から、仏法に耳を傾けてほしい、
そんな願いを感じさせるのが、宗門の貴公子・吉村隆真師の著書、
「現代法話集 法話が好きになる本」(探究社840円)です。
すでに刊行されて月日はたつのですが、皆さん、お読みになられ
ましたか。
たとえば、こんなお話も・・・。(要約)
「人生の安全運転
一番事故を起こしやすいのは、だろう運転。
人生でも、まさか今日は死なないだろう、というだろう運転で
生きてはいないだろうか。
そんな日常に、突然自己の死が訪れたら、まさに人生の大事故。
安全な運転は、かもしれない運転。
でも、かもしれないで生きていく人生は、大変不安な人生」
ここから、本文を転載させて頂きます。
「まさに、阿弥陀さまが見抜いてくださったのは、そこだったのです。
本来、いつ終わるかもしれないと、びくびく、おどおどしながら生き
ていくしかなかった私のいのちを、阿弥陀さまはしっかりと抱きとめ
た上で、「あなたが、いつ・どこで・どのようなかたちでいのち尽き
たとしても、そのいのちすでに私が引き受けてあるのですよ。だから
あなたは安心して、せっかくいただいているいのちを、いま・ここで、
精いっぱい輝かせて生き抜きなさい。そして、やがてそのいのち尽き
たならば、わたしと共に真実のさとりの世界へかえろう」と、常によ
び続けておられるのです。
そのよび声こそが、「南無阿弥陀仏」として、いま、この私に、
至り届いているのです」
ここで一つ、疑問がわきます。
阿弥陀仏の呼び声が至り届いた後も、なお、びくびく、おどおど
しながら私たちが生きていかねばならないのは、なぜでしょうか。