世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「寺の散歩道」というブログがあります。
中外日報や、本願寺新報の記事を読んで、感想や、意見を書いてこられたのですが、
8月2日のページ以降、更新がありません。
よもや、どこかの圧力でストップさせられたのではないでしょうね。
特に最後の日の「創価学会になれなかった本願寺」というのは強烈でした。
こういう問題提起を、ことごとく握りつぶして、宗門の安泰だけを願って
いるのでしょうか、そんなことでは、安泰も望めないことを、知らねばなり
ません。
蓮如上人は、自分の言動について気が付くことがあったら、カゲにでも
言ってもらいたい、そうして自らを改めていくから、と仰せです。
ところが、宗門に対して何か意見を言おうものなら、ただちに「異端だ」
とか、「異安心だ」とか、「反逆だ」と、つぶされてしまう。
そりゃあ、長老になって、押しも押されもせぬ地位を築いた後ならば、
宗議会などで、いろいろ言えるでしょうが、しかし、この前の「宗制」の
改正を決めた宗会でも、本当に真剣に意見の交換があったのか、どうか。
よくいえば、根回しができていた、悪くいえば、株主総会といっしょで、
シャンシャンで終わった、とも聞こえてきます。
そんな中、「寺の散歩道」では、「僧侶数と参詣者数」とか、「750
回忌の募財」とか、「門徒数の実態」とか、急所を突いた問題提起をして
来ていました。
それだけに、更新が待たれるのですが、どうか、いろいろあって厳しい
でしょうが、頑張ってください。
中外日報や、本願寺新報の記事を読んで、感想や、意見を書いてこられたのですが、
8月2日のページ以降、更新がありません。
よもや、どこかの圧力でストップさせられたのではないでしょうね。
特に最後の日の「創価学会になれなかった本願寺」というのは強烈でした。
こういう問題提起を、ことごとく握りつぶして、宗門の安泰だけを願って
いるのでしょうか、そんなことでは、安泰も望めないことを、知らねばなり
ません。
蓮如上人は、自分の言動について気が付くことがあったら、カゲにでも
言ってもらいたい、そうして自らを改めていくから、と仰せです。
ところが、宗門に対して何か意見を言おうものなら、ただちに「異端だ」
とか、「異安心だ」とか、「反逆だ」と、つぶされてしまう。
そりゃあ、長老になって、押しも押されもせぬ地位を築いた後ならば、
宗議会などで、いろいろ言えるでしょうが、しかし、この前の「宗制」の
改正を決めた宗会でも、本当に真剣に意見の交換があったのか、どうか。
よくいえば、根回しができていた、悪くいえば、株主総会といっしょで、
シャンシャンで終わった、とも聞こえてきます。
そんな中、「寺の散歩道」では、「僧侶数と参詣者数」とか、「750
回忌の募財」とか、「門徒数の実態」とか、急所を突いた問題提起をして
来ていました。
それだけに、更新が待たれるのですが、どうか、いろいろあって厳しい
でしょうが、頑張ってください。
PR
宗門の貴公子さんが書いてくださった「布教研究専従職員」ですが、
そういえば、最近の本願寺新報にも、法話のページで、ときどきこの
肩書きを目にしました。
たとえば、4月10日号に掲載されたのが、本山布教研究専従職員
の名和康成氏の「ごまかしのない生」です。
全文はこちらをご覧ください。
なるほど、宗門の貴公子さんが言われていたように、物足りないと
いうか、ハッキリ言えば、
「何が言いたいのか、ハッキリしない」のです。
たとえば、この全文を読んでも、
「じゃあ、私は、死んで弥陀の浄土に往生できるのですか。
できないのですか」
という問いに、少しも答えていない。
名和氏のこれまでの思想経歴は分かりました。
お念仏喜んだ、おばあさんの話は分かりました。
親鸞聖人の御和讃も、拝読しました。
そこに宗祖は「願土にいたればすみやかに」こうなる、ということは
詳しくご教示くださいましたが、では、かんじんの願土に、私は往ける
のですか、どうですか。
先に、吉村隆真師も書いておられたように、放送や掲載の前には、
必ずご本山のチェックが入るのですから、ここらちゃんとチェックして
くれたんでしょうか。
いや、もしかしたら、チェックしたから、こんなふうになったのか。
ああ、なんか、そんな気もしてきましたね。
若き熱意に燃える布教専従員の文章を、よくいえば老練な、悪く言えば
老獪な、どこからも突っ付かれないようにと、保身のみを考える検閲係が
削りに削って、骨抜きにしちゃったのかも知れませんね。
だって、最後の一文、
「死という現実から目をそらすという「ごまかし」を抱えたまま
生きていた私に、「ごまかしのない生(せい)」を与えてくだ
さる、そんな阿弥陀さまのお慈悲の中に、今、私は生かされて
います。」
これって、日本語として、意味、分かります?
これこそ、むしろ、「ごまかし」た文章ではありませんか。
すみませんね、毎度、言いたい放題、言ってます。
そういえば、最近の本願寺新報にも、法話のページで、ときどきこの
肩書きを目にしました。
たとえば、4月10日号に掲載されたのが、本山布教研究専従職員
の名和康成氏の「ごまかしのない生」です。
全文はこちらをご覧ください。
なるほど、宗門の貴公子さんが言われていたように、物足りないと
いうか、ハッキリ言えば、
「何が言いたいのか、ハッキリしない」のです。
たとえば、この全文を読んでも、
「じゃあ、私は、死んで弥陀の浄土に往生できるのですか。
できないのですか」
という問いに、少しも答えていない。
名和氏のこれまでの思想経歴は分かりました。
お念仏喜んだ、おばあさんの話は分かりました。
親鸞聖人の御和讃も、拝読しました。
そこに宗祖は「願土にいたればすみやかに」こうなる、ということは
詳しくご教示くださいましたが、では、かんじんの願土に、私は往ける
のですか、どうですか。
先に、吉村隆真師も書いておられたように、放送や掲載の前には、
必ずご本山のチェックが入るのですから、ここらちゃんとチェックして
くれたんでしょうか。
いや、もしかしたら、チェックしたから、こんなふうになったのか。
ああ、なんか、そんな気もしてきましたね。
若き熱意に燃える布教専従員の文章を、よくいえば老練な、悪く言えば
老獪な、どこからも突っ付かれないようにと、保身のみを考える検閲係が
削りに削って、骨抜きにしちゃったのかも知れませんね。
だって、最後の一文、
「死という現実から目をそらすという「ごまかし」を抱えたまま
生きていた私に、「ごまかしのない生(せい)」を与えてくだ
さる、そんな阿弥陀さまのお慈悲の中に、今、私は生かされて
います。」
これって、日本語として、意味、分かります?
これこそ、むしろ、「ごまかし」た文章ではありませんか。
すみませんね、毎度、言いたい放題、言ってます。
昨日、「みほとけとともに 西本願寺の時間」について書きました。
ついでに、その過去の記録を見てみたら、あれれ、9月の佐々木義信氏
までは一人が2回、話を担当していましたが、10月に入ってからは、
一人が1回だけになっていますね。
どうしてかなあ?
スタジオを押さえ、出演者を呼び、せっかく録音をするのならば、
2回分、収録したほうが効率がいいのに。
しかも、これまでの話は、何となく、2回聞いてようやく話がつなが
るというか、一セットという内容になっていました。佐々木氏のでも、
「浄土真宗の生活信条1、2」という構成になっていました。
それが、一人1回、ということは、話の中身がなくなってきたからか。
聞かせる話題がないからか。「同じ話だ」と言われるのがいやなのか。
そんなことさあ、気にせずにどんどん話すればいいんですよ。
同じお言葉であっても、宗祖のお言葉を出して、繰り返し話をすれば
いいじゃないですか。
「また、あの話か」というような聞き方をするのが、間違いなのです
から。
「初事、初事、と、聞かねばならない」と蓮如上人も仰せではないですか。
同じ話だからなあ、などと躊躇しているのは、自分の影におびえてい
るのです。自分も、そんな聞き方しかしていないからです。
「おしうることもまた難し
よくきくことも難ければ
信ずることもなお難し」
正しく教えることも難しいし、正しく聞くことも難しい、だから信ずる
ことはもっとも難しい、と親鸞聖人は仰せです。
だから、同じ事を、とりかえし、とりかえし、何度も、分かるまで、
話をしていきましょうよ。
かといって、すぐに一人2回というのは、難しいでしょうねえ。
ついでに、その過去の記録を見てみたら、あれれ、9月の佐々木義信氏
までは一人が2回、話を担当していましたが、10月に入ってからは、
一人が1回だけになっていますね。
どうしてかなあ?
スタジオを押さえ、出演者を呼び、せっかく録音をするのならば、
2回分、収録したほうが効率がいいのに。
しかも、これまでの話は、何となく、2回聞いてようやく話がつなが
るというか、一セットという内容になっていました。佐々木氏のでも、
「浄土真宗の生活信条1、2」という構成になっていました。
それが、一人1回、ということは、話の中身がなくなってきたからか。
聞かせる話題がないからか。「同じ話だ」と言われるのがいやなのか。
そんなことさあ、気にせずにどんどん話すればいいんですよ。
同じお言葉であっても、宗祖のお言葉を出して、繰り返し話をすれば
いいじゃないですか。
「また、あの話か」というような聞き方をするのが、間違いなのです
から。
「初事、初事、と、聞かねばならない」と蓮如上人も仰せではないですか。
同じ話だからなあ、などと躊躇しているのは、自分の影におびえてい
るのです。自分も、そんな聞き方しかしていないからです。
「おしうることもまた難し
よくきくことも難ければ
信ずることもなお難し」
正しく教えることも難しいし、正しく聞くことも難しい、だから信ずる
ことはもっとも難しい、と親鸞聖人は仰せです。
だから、同じ事を、とりかえし、とりかえし、何度も、分かるまで、
話をしていきましょうよ。
かといって、すぐに一人2回というのは、難しいでしょうねえ。