世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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9月5日から定宗が開かれています。
前から問題になっていて、今回も取り上げられると聞いているのが、
歴代門主の消息を、お聖教と同じく扱うか、どうか、の問題です。
たしかに、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人がたと、その他の法主、
門主のかたがたを、同列に扱うのは、いかがなものか、という問題
はあります。
さらには、戦前において消息で、聞信徒へ戦争参加の呼びかけを
行なったことは、大いに問題にされるべきでありましょう。
また、三業惑乱を収拾するために発せられたご裁断の御書では、
「一念の覚、不覚を論ずるな」
と言われています。もちろん、信楽開発の一念のことです。
「たのむ一念のところ、肝要なり」
とまで、蓮如上人は仰せであり、真宗の要の中の要である信の一念
について、「論じてはならない、語ってはならない」と言ってしま
ったために、今日まで、誰一人として、信一念に触れようともして
いません。
たまに、一念を説く者があると、異安心よばわりしているしまつ。
その論拠も、この当時の法主が発した消息にあったのです。
しかし、消息に聖教と同じ権威を認めない、ということになると、
じゃあ、門主は、どんな発言をし、文書を公表しても、何の発言力
も拘束力もない、ということだと、じゃあ門主って何だよ!という
ことにもなりかねません。
というようなややこしい話が絡んでいますので、おいそれと結論
は出ないでしょうが、もっと根本的なことをいえば、
「宗祖親鸞聖人の教えに反したことを教える門主を
宗門のトップにかついでいて、それでいいのか?!」
ということではないでしょうか。
おっと、おそろしくて、こんなこと、口に出して言う人はいない
でしょうけど。
前から問題になっていて、今回も取り上げられると聞いているのが、
歴代門主の消息を、お聖教と同じく扱うか、どうか、の問題です。
たしかに、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人がたと、その他の法主、
門主のかたがたを、同列に扱うのは、いかがなものか、という問題
はあります。
さらには、戦前において消息で、聞信徒へ戦争参加の呼びかけを
行なったことは、大いに問題にされるべきでありましょう。
また、三業惑乱を収拾するために発せられたご裁断の御書では、
「一念の覚、不覚を論ずるな」
と言われています。もちろん、信楽開発の一念のことです。
「たのむ一念のところ、肝要なり」
とまで、蓮如上人は仰せであり、真宗の要の中の要である信の一念
について、「論じてはならない、語ってはならない」と言ってしま
ったために、今日まで、誰一人として、信一念に触れようともして
いません。
たまに、一念を説く者があると、異安心よばわりしているしまつ。
その論拠も、この当時の法主が発した消息にあったのです。
しかし、消息に聖教と同じ権威を認めない、ということになると、
じゃあ、門主は、どんな発言をし、文書を公表しても、何の発言力
も拘束力もない、ということだと、じゃあ門主って何だよ!という
ことにもなりかねません。
というようなややこしい話が絡んでいますので、おいそれと結論
は出ないでしょうが、もっと根本的なことをいえば、
「宗祖親鸞聖人の教えに反したことを教える門主を
宗門のトップにかついでいて、それでいいのか?!」
ということではないでしょうか。
おっと、おそろしくて、こんなこと、口に出して言う人はいない
でしょうけど。
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お東さん、大谷派では、全国の門徒の戸数を再調査します。
門徒の戸数に応じて、ほら、いろいろ額が変わってきたり
するものが、ありますでしょう。適正な数に応じて、賦課する
必要があって、再調査するとのことです。
しかし、あまりにあからさまな数字が出てくるとこわいと
思ったのか、「寺との関係の濃淡を加味して調べる」んだとか。
つまり、寺だけに所属している戸数、寺が主だが、ほかにも
所属している戸数、寺と他宗教とかけもちの戸数、登録しては
あるが他宗教のほうが主になっている戸数、というようななに
やら微妙な表現だが、ひろーーーい意味での門徒戸数をはじき
出そうとしているのです。
これで、正確な調査になるんだろうか。
とはいえ、その結果が集計されたとき、ゾッ!とするのでは
ないでしょうか。
そして、もし本派でもこれを調べたら、あまりにスゴイ実態
が分かって、ひっくり返るのでは?
なんか、怖いもの見たさ、という感じになってきましたね。
門徒の戸数に応じて、ほら、いろいろ額が変わってきたり
するものが、ありますでしょう。適正な数に応じて、賦課する
必要があって、再調査するとのことです。
しかし、あまりにあからさまな数字が出てくるとこわいと
思ったのか、「寺との関係の濃淡を加味して調べる」んだとか。
つまり、寺だけに所属している戸数、寺が主だが、ほかにも
所属している戸数、寺と他宗教とかけもちの戸数、登録しては
あるが他宗教のほうが主になっている戸数、というようななに
やら微妙な表現だが、ひろーーーい意味での門徒戸数をはじき
出そうとしているのです。
これで、正確な調査になるんだろうか。
とはいえ、その結果が集計されたとき、ゾッ!とするのでは
ないでしょうか。
そして、もし本派でもこれを調べたら、あまりにスゴイ実態
が分かって、ひっくり返るのでは?
なんか、怖いもの見たさ、という感じになってきましたね。
広島県法光寺(ほうこうじ)副住職で、中央基幹運動推進相談員
である季平 博昭 (すえひら はくしょう)氏のラジオ法話が先週末
に流れました。
その一週間前の、「願い」について、このブログでもふれました
けれども、その時にも、最も大切な宗祖のお言葉はなく、どこかの
誰かさんが言った話、というのを題材に話していました。
今回のも、NHKの朝の連続ドラマの話、テレビドラマ「聖者の
行進」の話、などが出てくるだけ。
あなたは、一体、どなたの開かれた宗派の人なんですか。宗祖の
言葉、全く出しもしないで。
しかも、ようやく引用した、朝日新聞に掲載されたご門主の話、
「それでいいんだよ、という支え、仏教だけに限りませんが、なにか
現世をこえた宗教的な支えが大事だと思いますよ」
という部分を引用していました。
なぜ、「仏教だけに限らない」としか、言えないのでしょう。
親鸞聖人は、
「九十五種 世をけがす 唯仏一道 きよくます」
と和讃におっしゃり、仏教以外の全宗教は、世をけがし、人々を
迷わせ苦しめるものだ、ただ仏教だけが真実である、と断言されました。
有名な歎異抄でも、
「火宅無常の世界はよろずのこと皆もって、空事たわごとまこと
あることなしに、ただ念仏のみぞまことにておわします」
とおおせられたと書かれています。
仏教以外、弥陀の本願以外は、すべて空事、たわごと、と一刀両断
なされ、「ただ念仏のみぞまこと」と断言なされています。
宗祖の命がけのこの断言にそむき、なぜ「仏教だけに限らない、
他の宗教の支えでもよい」としか言えないのか。宗祖の仰せの通り
ズバリ言い切ることができないのは、なぜか。
自らの信奉する宗祖の教えに対する自信の欠如、という、宗門の
かかえた、大問題が、ここにあきらかになるのです。
何を弱腰になっているのか。
何を遠慮し、はばかっているのか。
何を恐れているのか。
いやはや、これは単なるラジオ法話だけにとどまらない、大問題
であります。深く、考えてみましょう。
ちょっとお勉強のページです
浄土真宗 講座
である季平 博昭 (すえひら はくしょう)氏のラジオ法話が先週末
に流れました。
その一週間前の、「願い」について、このブログでもふれました
けれども、その時にも、最も大切な宗祖のお言葉はなく、どこかの
誰かさんが言った話、というのを題材に話していました。
今回のも、NHKの朝の連続ドラマの話、テレビドラマ「聖者の
行進」の話、などが出てくるだけ。
あなたは、一体、どなたの開かれた宗派の人なんですか。宗祖の
言葉、全く出しもしないで。
しかも、ようやく引用した、朝日新聞に掲載されたご門主の話、
「それでいいんだよ、という支え、仏教だけに限りませんが、なにか
現世をこえた宗教的な支えが大事だと思いますよ」
という部分を引用していました。
なぜ、「仏教だけに限らない」としか、言えないのでしょう。
親鸞聖人は、
「九十五種 世をけがす 唯仏一道 きよくます」
と和讃におっしゃり、仏教以外の全宗教は、世をけがし、人々を
迷わせ苦しめるものだ、ただ仏教だけが真実である、と断言されました。
有名な歎異抄でも、
「火宅無常の世界はよろずのこと皆もって、空事たわごとまこと
あることなしに、ただ念仏のみぞまことにておわします」
とおおせられたと書かれています。
仏教以外、弥陀の本願以外は、すべて空事、たわごと、と一刀両断
なされ、「ただ念仏のみぞまこと」と断言なされています。
宗祖の命がけのこの断言にそむき、なぜ「仏教だけに限らない、
他の宗教の支えでもよい」としか言えないのか。宗祖の仰せの通り
ズバリ言い切ることができないのは、なぜか。
自らの信奉する宗祖の教えに対する自信の欠如、という、宗門の
かかえた、大問題が、ここにあきらかになるのです。
何を弱腰になっているのか。
何を遠慮し、はばかっているのか。
何を恐れているのか。
いやはや、これは単なるラジオ法話だけにとどまらない、大問題
であります。深く、考えてみましょう。
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