世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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富士山と桜のコラボ、キレイですね。
◆さて、まずは確認の意味で、現在の勧学寮員は、以下のとおりです。
1.普賢晃壽勧学寮頭
2.北畠典生勧学
3.霊山勝海勧学
4.徳永一道勧学(以上は再任)
5.渡邊隆生勧学
6.宇野順治勧学
7.中西智海勧学
8.淺田恵真勧学(以上は新任) 本年4月1日付け
◆さて、アキレてモノが言えないのが、ご本山で再開された「日没勤行」
であります。
通常は20分間はかかる「正信偈」を、たった5分!で読み終える
のですから、驚きです。
<詳報は、4月11日付け中外日報をご覧ください>
もともとは、織田信長と戦った、石山合戦のとき、いつ敵が攻め
てくるか分からない中で、先人たちは、息つく間もなく一気に読み、
法灯を守り抜いた、と言われており、
「石山合戦の歴史を、後世に語り伝える意味で、大切だ」と、関係者
は言うのですが、
正信偈は親鸞聖人の直のお言葉。それを5分で一気読みするなど
おろそかにするにもホドがあると思いませんか。
「いや、一字も省略してはいません」と言われるのですが、語句を
抜かすのだけが「おろそかにしている」のではないのです。お言葉を
しっかりと拝読するのではなく、とにかくこの時間内に読んでしまわ
なければならない、と、急いで読み終わろうとする、そんな読み方が
「おろそかにしている」と言うのです。
石山合戦を後世に伝える、その言やよし。しかし、それなら
もっと別な方法で、石山合戦を語り伝えることはできるはずです。
皆さん、どうお考えですか?
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宗祖親鸞聖人は、破天荒の肉食妻帯をなされ、全ての人が
ありのままで救われる、弥陀の誓願ましますことを明らかに
していかれました。
その浄土真宗において、「肉や魚は、食べない!」という、
世に言う「精進料理」というのは、如何なものか。
と言いますのも、本願寺出版社から「イタリアン精進レシピ」
に続いて、「イタリアン精進レシピ2」が出されています。
本願寺出版社のサイト「イタリアン精進レシピ2」(立ち読みできます)
前にも、精進料理については、何回か、書きました。
「利剣即是弥陀名号」ってこんな意味!?・・・平成19年12月8日
真宗で「精進料理」って どーゆーことよ!・・・平成20年1月22日
「殺生せずしては生きられぬ、十方衆生(すべての人)のすがた」を
明らかにしていかれた親鸞聖人を祖師と仰ぎながら、「私は殺生など
していませんよ!」と、ことさらに「精進料理」を食するのは、如何
なものか。
そりゃ、単に野菜料理が好き、というのなら、それはそれでけっこう
でしょう。しかしそれを敢えて「精進料理」と言わねばならないのか。
ただの料理の名称ではありますが、そういうところにも、祖師の教え
が踏みにじられている、惨状を嘆かずにおれないのです。
「精進」の正しい意味は、現代語で言えば、努力することです。
食べ物とは、関係ないのです。
何を食べようが、一生懸命努力する、そこが大切なのです。
ありのままで救われる、弥陀の誓願ましますことを明らかに
していかれました。
その浄土真宗において、「肉や魚は、食べない!」という、
世に言う「精進料理」というのは、如何なものか。
と言いますのも、本願寺出版社から「イタリアン精進レシピ」
に続いて、「イタリアン精進レシピ2」が出されています。
本願寺出版社のサイト「イタリアン精進レシピ2」(立ち読みできます)
前にも、精進料理については、何回か、書きました。
「利剣即是弥陀名号」ってこんな意味!?・・・平成19年12月8日
真宗で「精進料理」って どーゆーことよ!・・・平成20年1月22日
「殺生せずしては生きられぬ、十方衆生(すべての人)のすがた」を
明らかにしていかれた親鸞聖人を祖師と仰ぎながら、「私は殺生など
していませんよ!」と、ことさらに「精進料理」を食するのは、如何
なものか。
そりゃ、単に野菜料理が好き、というのなら、それはそれでけっこう
でしょう。しかしそれを敢えて「精進料理」と言わねばならないのか。
ただの料理の名称ではありますが、そういうところにも、祖師の教え
が踏みにじられている、惨状を嘆かずにおれないのです。
「精進」の正しい意味は、現代語で言えば、努力することです。
食べ物とは、関係ないのです。
何を食べようが、一生懸命努力する、そこが大切なのです。
季節の一枚、秋田県の角館にある、武家屋敷の桜です。
Hさん、有り難うございます。
今、本派が力を入れているビハーラ活動の理念について、以下の
ように書かれています。
本願寺社会部 ビハーラ活動の理念
<親鸞聖人における死の受けとめ方
親鸞聖人のみ教えは、浄土教の伝統を受け継いでいますが、
阿弥陀仏の臨終来迎を期待するものではありません。ご消息
には、次のように記されています。
「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。
このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。
信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまた
ず。」(『注釈版聖典』七三五頁)
ここに親鸞聖人は、臨終の瞬間にみ仏の救いを待つ必要は
なく、平生においてすでにみ仏に摂取不捨されているという
救いを明らかにされています。それは、死に直面している人々
の寂しさや不安を軽視したのではなく、いまここで、すでに
み仏に抱きとられ護られていることを明らかにすることによ
って、どのような最期を迎えても、必ずお浄土に往生すると
いうことを説かれたのです。>
さてここで、重大な一文が抜け落ちていることに、賢明な皆さんは
お気づきでしょう。
宗祖は、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに正定聚に住す」
とおっしゃっているのであって、上記の解説文では「真実信心の行人
は」という部分が、抜けています。あたかも、真実信心の人も、未信
の人も、すべて死ねばお浄土に往ける、と言われていませんか。
これは、この部分だけでなく、あらゆる法座、文書伝道、ラジオ、
ネット上で、発信されていることにも、共通しています。
「あなたは、すでに救われているのですよ」と言っても、「えっ?
私が・・・。ホントですか?信じられないなあ」「いや、気づいて
いないだけで、救われているんですよ」「ふーん?」で、終わりに
なってしまう、これじゃ話が進みません。
真実信心の人は、お浄土へ行けるのですよ
じゃあ、どうすれば、その身になれるのですか
というところから、聞法が始まるのではないしょうか。
そこを説くのが布教であり、そこを聞くのが聞法ではないでしょうか。
そうなってこそ、宗門が、活発化すると思います。いかがでしょう。
Hさん、有り難うございます。
今、本派が力を入れているビハーラ活動の理念について、以下の
ように書かれています。
本願寺社会部 ビハーラ活動の理念
<親鸞聖人における死の受けとめ方
親鸞聖人のみ教えは、浄土教の伝統を受け継いでいますが、
阿弥陀仏の臨終来迎を期待するものではありません。ご消息
には、次のように記されています。
「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。
このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。
信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまた
ず。」(『注釈版聖典』七三五頁)
ここに親鸞聖人は、臨終の瞬間にみ仏の救いを待つ必要は
なく、平生においてすでにみ仏に摂取不捨されているという
救いを明らかにされています。それは、死に直面している人々
の寂しさや不安を軽視したのではなく、いまここで、すでに
み仏に抱きとられ護られていることを明らかにすることによ
って、どのような最期を迎えても、必ずお浄土に往生すると
いうことを説かれたのです。>
さてここで、重大な一文が抜け落ちていることに、賢明な皆さんは
お気づきでしょう。
宗祖は、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに正定聚に住す」
とおっしゃっているのであって、上記の解説文では「真実信心の行人
は」という部分が、抜けています。あたかも、真実信心の人も、未信
の人も、すべて死ねばお浄土に往ける、と言われていませんか。
これは、この部分だけでなく、あらゆる法座、文書伝道、ラジオ、
ネット上で、発信されていることにも、共通しています。
「あなたは、すでに救われているのですよ」と言っても、「えっ?
私が・・・。ホントですか?信じられないなあ」「いや、気づいて
いないだけで、救われているんですよ」「ふーん?」で、終わりに
なってしまう、これじゃ話が進みません。
真実信心の人は、お浄土へ行けるのですよ
じゃあ、どうすれば、その身になれるのですか
というところから、聞法が始まるのではないしょうか。
そこを説くのが布教であり、そこを聞くのが聞法ではないでしょうか。
そうなってこそ、宗門が、活発化すると思います。いかがでしょう。