世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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三業惑乱
先回までの内容をまとめましょう。
(1)全国に、無帰命安心、十劫安心といわれる、異安心が
はびこっていた。
「私たちはすでに助かってしまっているのだから、
今さら、求めることも、聞き歩くこともいらない。
死ねば、すべての人が極楽へ往生できるのだから、
お念仏をとなえて、ご恩報謝の生活をしましょう」
という、親鸞聖人の教えられた真実信心とは異なる
信心(安心)である。
(2)これを正そうとして、「信心獲得しなければ、極楽
往生はできない」と、信心獲得を強調した。
これにより、何もしなくても、誰でも死ねば極楽へ
往生できる、というのは誤りだと徹底された。
(3)ところが、今度は、「では、どうすれば阿弥陀仏に
救われるのか。信心獲得できるのか」ということが
問題になった。
(4)ここで能化が「心で助けてくださいと念じ、口でも
お助けくださいと言い、体でもお願いしなければ、
信心獲得できない」と言い、「身・口・意の三業で
弥陀にお願いしなければ信心獲得できない」という
ので、これを三業帰命という。
これまた親鸞聖人の教えられた安心と全く異なるの
で、三業帰命の異安心といわれる。
十劫安心を正そうとして、三業帰命になってしまっ
たのである。
(5)幕府の介入で、騒乱はおさまったが、本山のトップ
は総入れ替えとなり、以後、「弥陀たのむ一念」に
ついては、触れなくなてしまった。
以後、今後のことについて。
今日、ほとんどすべてが、十劫安心に逆戻りしてし
まった。つまり、「みんな、すでに助かっているの
だから、今さら、聞く必要はない。死ねば、みんな
極楽へ往生できるのだ」と、思われている。
しかし、歴史は繰り返す。今日、「学者の教義の話
よりも、生々しい体験談がいい」という発言にもあ
るように、体験(三業)がどうなったかを聞きたい
そういう話をするべきだ、という方向へ、信仰が、
振れつつある。
よって、今こそ、この問題を、現代の課題として問い直し、
くれぐれも真実信心を、誤って伝えることのないように、
注意したいと思う。
・・・・・ということで、この三業惑乱について、連載して
おります。よろしくお願いします。
先回までの内容をまとめましょう。
(1)全国に、無帰命安心、十劫安心といわれる、異安心が
はびこっていた。
「私たちはすでに助かってしまっているのだから、
今さら、求めることも、聞き歩くこともいらない。
死ねば、すべての人が極楽へ往生できるのだから、
お念仏をとなえて、ご恩報謝の生活をしましょう」
という、親鸞聖人の教えられた真実信心とは異なる
信心(安心)である。
(2)これを正そうとして、「信心獲得しなければ、極楽
往生はできない」と、信心獲得を強調した。
これにより、何もしなくても、誰でも死ねば極楽へ
往生できる、というのは誤りだと徹底された。
(3)ところが、今度は、「では、どうすれば阿弥陀仏に
救われるのか。信心獲得できるのか」ということが
問題になった。
(4)ここで能化が「心で助けてくださいと念じ、口でも
お助けくださいと言い、体でもお願いしなければ、
信心獲得できない」と言い、「身・口・意の三業で
弥陀にお願いしなければ信心獲得できない」という
ので、これを三業帰命という。
これまた親鸞聖人の教えられた安心と全く異なるの
で、三業帰命の異安心といわれる。
十劫安心を正そうとして、三業帰命になってしまっ
たのである。
(5)幕府の介入で、騒乱はおさまったが、本山のトップ
は総入れ替えとなり、以後、「弥陀たのむ一念」に
ついては、触れなくなてしまった。
以後、今後のことについて。
今日、ほとんどすべてが、十劫安心に逆戻りしてし
まった。つまり、「みんな、すでに助かっているの
だから、今さら、聞く必要はない。死ねば、みんな
極楽へ往生できるのだ」と、思われている。
しかし、歴史は繰り返す。今日、「学者の教義の話
よりも、生々しい体験談がいい」という発言にもあ
るように、体験(三業)がどうなったかを聞きたい
そういう話をするべきだ、という方向へ、信仰が、
振れつつある。
よって、今こそ、この問題を、現代の課題として問い直し、
くれぐれも真実信心を、誤って伝えることのないように、
注意したいと思う。
・・・・・ということで、この三業惑乱について、連載して
おります。よろしくお願いします。
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三業惑乱の話に関連して、中外の記事から一つ。
大谷光真御門主が、
「学者の話よりも、生々しい体験談を」
と仰せられたことが、紹介されていました。
(3月24日号)
三業惑乱で問題となった「三業安心」というのは、
まさに「私はこうなった」「あなたはどうなったか」
というように、各自の体験話が盛んになり、三業が
詮索されました。
生々しい体験話を聞きたがる心は、たしかにあり、
また、自分が何がしかの体験をしたら、言いたくも
なります。
しかし、真実の信楽は、三業で語れるはずもなく、
語れば、さまざまな問題も起きてきます。
何よりも、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人は、一切
自己の体験を書き残しておられません。
それでも、なお「体験話を」といわれるのであれば、
いよいよもって、宗祖と違う道を、歩みだすことに
なりはしないでしょうか。
いや、もうすでに、歩んでいるのかも。
次回は、三業惑乱、その後を、続けます。
大谷光真御門主が、
「学者の話よりも、生々しい体験談を」
と仰せられたことが、紹介されていました。
(3月24日号)
三業惑乱で問題となった「三業安心」というのは、
まさに「私はこうなった」「あなたはどうなったか」
というように、各自の体験話が盛んになり、三業が
詮索されました。
生々しい体験話を聞きたがる心は、たしかにあり、
また、自分が何がしかの体験をしたら、言いたくも
なります。
しかし、真実の信楽は、三業で語れるはずもなく、
語れば、さまざまな問題も起きてきます。
何よりも、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人は、一切
自己の体験を書き残しておられません。
それでも、なお「体験話を」といわれるのであれば、
いよいよもって、宗祖と違う道を、歩みだすことに
なりはしないでしょうか。
いや、もうすでに、歩んでいるのかも。
次回は、三業惑乱、その後を、続けます。