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世界の光・親鸞聖人の教えを世界に! 夢は大きく、現状には厳しい目を!
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 アメリカ人の友人から聞きました。
「『歎異抄』の『善人なおもって往生をとぐ。いわんや悪人をや』
という言葉は、アメリカの大学生でも、東洋の格言として、よく
知っています。常識なんじゃないですか」

 ほう、そうなんだ、と思いました。
 ただ、もちろん、そこでいう「善人よりも悪人が助かる」という
ことも、欧米で、神の救いについて、「金持ちよりも、貧乏で苦し
んでいる人のほうが救われる」などと言われることと、関連付けて
理解されているようです。
 おそらく、そうでしょうね。

 善人よりも悪人を救う、と言う。
 しかし、ならば、突っ込みたいのですが、「じゃ、そんな悪人を
造ったのは、神ではないのか」というところです。
 自分が悪人を造り、苦しませておきながら、今度はその悪人を
救うぞ、などというのは、一体どんな神なんだ、と思います。

 さらに、そこでいう「悪人」というのも、宗祖が仰せられた、
「悪人」とは、天地雲泥の差があります。

「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、
 穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し。
                    (教行信証信巻)
十方衆生の中に、善人は一人もいない、と仰せです。

 このように、字は同じ「善人」「悪人」であっても、宗祖の
仰せられた意味とは、全く異なって流布しています。これは、
このお言葉以外でも、そうです。

 もし、こういう言葉が、ふっと聞こえてきた時には、それを
縁として、本当の「善人」「悪人」とは何か、親鸞聖人の本当
の教えを、伝えるご縁としたいものです。
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 案外ご存知ない方が多いと思いますが、本願寺社会部の
ホームペ-ジ
があります。
 そこに、このようにありました。

「親鸞聖人における死の受けとめ方
  親鸞聖人のみ教えは、浄土教の伝統を受け継いでいますが、
 阿弥陀仏の臨終来迎を期待するものではありません。ご消息
 には、次のように記されています。

 「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。
  このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心
  の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。」
                (『注釈版聖典』七三五頁)

  ここに親鸞聖人は、臨終の瞬間にみ仏の救いを待つ必要は
 なく、平生においてすでにみ仏に摂取不捨されているという
 救いを明らかにされています。
  それは、死に直面している人々の寂しさや不安を軽視した
 のではなく、いまここで、すでにみ仏に抱きとられ護られて
 いることを明らかにすることによって、どのような最期を迎
 えても、必ずお浄土に往生するということを説かれたのです。」


おっと、最後の部分、よくよく注意して読まねばなりません。
「いまここで、すでにみ仏に抱きとられ護られていることを明ら
かにする」

ここです。
すべての人が、阿弥陀仏に抱きとられ護られているのでしょうか。

親鸞聖人は、
「金剛堅固の信心の
 さだまるときをまちえてぞ
 弥陀の心光摂護して
 ながく生死をへだてける
          (高僧和讃)


 弥陀の心光に摂護されるのは、金剛堅固の信心の定まった時で
ある
と、仰せです。信心定まっていない人は、まだ摂護されては
いないのです。
 なぜ、こんな大事なことを明らかにしないのでしょうか!
 信心不定のままで、臨終を迎えれば、後生は一大事なのに。

「では、信心定まるとは、どういうことか」
と問われたときに、答えられないから
・・・まさか、そうでは、ないでしょうね。
キッズサンガ 【浄土真宗本願寺 空知北組 青少年部】

こどもたちに、親鸞聖人の教えを伝えたいと、各地で活動している
キッズサンガですが、そのブログの一つです。

2月28日は、アカデミー賞受賞映画「おくりびと」についてでした。
中に、こんな一文があります。

「さて23日から3日間、光明寺永代教法座でした。ご講師は
 青木円成先生でした。「おくりびと」、ごらんになられていたそうです。
  ご法話は往生浄土についてお話いただきましたが、少しこの映画に
 ついて触れられました。
  映画の最後が、「またあえるせかいがある」ということば(テロップで
 しょうか)で終わっていたそうです。この尊い言葉を深く味わうお話
 を戴きました。  
 私たちが大切にお伝えしている言葉ですね。」

 


 映画としては、「またあえる世界」というのが精一杯だったのでしょう。
ここで「私たちがお伝えしている」といわれているのは、他でもない、
浄土真宗本願寺派のことです。
 本派では、この「世界」を「阿弥陀仏の極楽浄土」と教えられています。

 では「またあえるせかいがある」とは、どういうことになるのか。
 「弥陀の浄土がある」ことはその通りだが、そこにすべての人が、必ず
往けるのか、どうかには、今しばらく、聖人の教えを聞かせて頂かねばな
らない。なぜなら、宗祖は大経の「易往而無人」を

「易往而無人というは、易往はゆきやすしとなり、本願力に
 乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ往き易しと
なり、無人というは、ひとなしという、ひとなしというは、
真実信心の人はありがたき故に、実報土に生るる人まれなり
となり」(尊号真像銘文)


とおっしゃっているからだ。誰でも彼でも、死ねば浄土へ往けるのでは
ないことを、知らねばならない。
聖人の曾孫、覚如上人は、

「しかれば平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。
 平生のとき不定の念に住せばかなうべからず」(執持抄)


と仰せである。平生、弥陀の本願を聞信する一念に、往生一定とハッキリ
する。死んで極楽へ往けるかどうかは、今、弥陀の本願に救い摂られて
いるかどうかで決まるのである。

 その大事なところを、まったく触れないままで、「またあえる世界が
ある」としか伝えなければ、聖人の教えを伝えたことにはならない。
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