世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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NHKテレビで「ブラタモリ」を見ていて、へーっ!と思った人も多いでしょう。
東京の築地といえば、築地市場のイメージが強いのですが、実は、もともとは、
本願寺から始まったのです。
といいますのも・・・・・
「築地」はとは、もともと「埋立地」という意味です。
東京の築地も、埋立地なんですね。
徳川時代、1657年の「明暦の大火」で焼失した浅草の本願寺が移転する
ために、佃島の住人たちの手によって、この一帯の土地が造成されたのでした。
その後、真宗寺院や墓地が建てられて、寺町の様相を呈してきました。
以後、さまざまな混乱、変動を経て、現在に至っているというワケです。
ここの本尊は、聖徳太子の手彫りといわれる阿弥陀如来の立像です。
「浄土真宗の正しい御本尊は、南無阿弥陀仏(名号)である」
と親鸞聖人は教えられ、それは本山も認めているのに、築地本願寺も、
一向に改めようとはされない。なぜ祖師の仰せに従わないのか。
歴史ある寺院だけに、なんとも、残念です。
東京の築地といえば、築地市場のイメージが強いのですが、実は、もともとは、
本願寺から始まったのです。
といいますのも・・・・・
「築地」はとは、もともと「埋立地」という意味です。
東京の築地も、埋立地なんですね。
徳川時代、1657年の「明暦の大火」で焼失した浅草の本願寺が移転する
ために、佃島の住人たちの手によって、この一帯の土地が造成されたのでした。
その後、真宗寺院や墓地が建てられて、寺町の様相を呈してきました。
以後、さまざまな混乱、変動を経て、現在に至っているというワケです。
ここの本尊は、聖徳太子の手彫りといわれる阿弥陀如来の立像です。
「浄土真宗の正しい御本尊は、南無阿弥陀仏(名号)である」
と親鸞聖人は教えられ、それは本山も認めているのに、築地本願寺も、
一向に改めようとはされない。なぜ祖師の仰せに従わないのか。
歴史ある寺院だけに、なんとも、残念です。
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好評だった「ゲゲゲの女房」にかわって、NHK朝の連続ドラマは、
「てっぱん」がスタートしました。
舞台は瀬戸内、広島県尾道市です。
それで今週、いきなりバイクに乗って登場したのが、劇中では、
「おーい!なまぐさ坊主!」と呼ばれていた、浄土真宗の住職です。
広島だから、本願寺派、でしょうか。
墨染めの衣姿で、バイクに乗って、いかにもというかっこうでした。
こんなふうに茶化されても、何も言い返せない、のが、現在の宗門
ということでしょうか。
聖徳太子は、十七条憲法に、
「あつく三宝をうやまえ 三宝とは 仏・法・僧 これなり」
と、僧侶は宝であると仰せです。茶化すなんて、とんでもないこと。
しかし、今や僧侶といえば、茶化しの対象に、なり下がったという
ことかも知れません。残念なことです。
「てっぱん」がスタートしました。
舞台は瀬戸内、広島県尾道市です。
それで今週、いきなりバイクに乗って登場したのが、劇中では、
「おーい!なまぐさ坊主!」と呼ばれていた、浄土真宗の住職です。
広島だから、本願寺派、でしょうか。
墨染めの衣姿で、バイクに乗って、いかにもというかっこうでした。
こんなふうに茶化されても、何も言い返せない、のが、現在の宗門
ということでしょうか。
聖徳太子は、十七条憲法に、
「あつく三宝をうやまえ 三宝とは 仏・法・僧 これなり」
と、僧侶は宝であると仰せです。茶化すなんて、とんでもないこと。
しかし、今や僧侶といえば、茶化しの対象に、なり下がったという
ことかも知れません。残念なことです。
龍谷大学の若原道昭学長が、9月25日、滋賀県米原市の
文化産業交流会館で講演をしました。
これは、地元の本願寺派寺院が招待し、親鸞聖人750回忌に
あわせて開催したもので、後半はオペラの上演でした。
中日新聞によると、「市内外の約850人が訪れた」とのこと。
まあ、人数はいいとして、問題は、若原学長の講演です。
「共生と安心」と題して、
「ものごとを善悪など、白か黒で決めるのではない」
「画一的に同じではなく、おのおのが違ったままで共生する
ことに意義がある」と話しました。
まあ、大学の先輩であり、あまり悪くは言いたくないですが、
学長は教育学が専門であり、保育士養成などには貢献されている
方であり、親鸞聖人の教えには、あまりお詳しくないのかも
知れません。
講演の全体を聴いたわけはないので、断定はできませんが、
少なくとも、親鸞聖人の「安心」について語られるのならば、
◆聖人の教えられた他力の安心(信心)は、
「凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味」(正信偈)
と仰せの通り、万人が、一味平等の信心に生かされます。
師の法然上人も、
「信心のかわると申すは、自力の信にとりてのことなり。
(中略)他力の信心は、善悪の凡夫、共に仏のかたより
たまわる信心なれば、源空が信心も、善信房(親鸞聖人)が
信心もさらにかわるべからず、ただ一つなり」(御伝抄)
と仰せの通りです。
画一的に同じではいけない、といわれるのが、この信心に
ついてのことならば、学長は訂正されるべきでしょう。
◆また、親鸞聖人の主著「教行信証」は、三重廃立が説かれて
います。三つの廃すべきものと、立てるべきものとが、明らかに
教えられています。
(1)内外廃立―一切の仏教以外の宗教をすてて仏教を信じよ。
(2)聖浄廃立―聖道門をすてて浄土門に入れ。
(3)真仮廃立―浄土他流をすてて真宗に入れ。
そこには、はっきりと「すてるべきもの」と「信ずべきもの」を
分けられています。「善か、悪か、白か、黒か、で決めるべきでは
ない」との主張が、この信仰についてであれば、即刻、撤回すべき
でありましょう。
◆そうでない、ということであれば、取り越し苦労ですが。
ただ、本願寺派の宗学の最高峰、龍谷大学の学長が、「安心」と
題して話をされたからには、当然、親鸞聖人の教えられた安心(信心)
についてのことだと、思いますけどね。
文化産業交流会館で講演をしました。
これは、地元の本願寺派寺院が招待し、親鸞聖人750回忌に
あわせて開催したもので、後半はオペラの上演でした。
中日新聞によると、「市内外の約850人が訪れた」とのこと。
まあ、人数はいいとして、問題は、若原学長の講演です。
「共生と安心」と題して、
「ものごとを善悪など、白か黒で決めるのではない」
「画一的に同じではなく、おのおのが違ったままで共生する
ことに意義がある」と話しました。
まあ、大学の先輩であり、あまり悪くは言いたくないですが、
学長は教育学が専門であり、保育士養成などには貢献されている
方であり、親鸞聖人の教えには、あまりお詳しくないのかも
知れません。
講演の全体を聴いたわけはないので、断定はできませんが、
少なくとも、親鸞聖人の「安心」について語られるのならば、
◆聖人の教えられた他力の安心(信心)は、
「凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味」(正信偈)
と仰せの通り、万人が、一味平等の信心に生かされます。
師の法然上人も、
「信心のかわると申すは、自力の信にとりてのことなり。
(中略)他力の信心は、善悪の凡夫、共に仏のかたより
たまわる信心なれば、源空が信心も、善信房(親鸞聖人)が
信心もさらにかわるべからず、ただ一つなり」(御伝抄)
と仰せの通りです。
画一的に同じではいけない、といわれるのが、この信心に
ついてのことならば、学長は訂正されるべきでしょう。
◆また、親鸞聖人の主著「教行信証」は、三重廃立が説かれて
います。三つの廃すべきものと、立てるべきものとが、明らかに
教えられています。
(1)内外廃立―一切の仏教以外の宗教をすてて仏教を信じよ。
(2)聖浄廃立―聖道門をすてて浄土門に入れ。
(3)真仮廃立―浄土他流をすてて真宗に入れ。
そこには、はっきりと「すてるべきもの」と「信ずべきもの」を
分けられています。「善か、悪か、白か、黒か、で決めるべきでは
ない」との主張が、この信仰についてであれば、即刻、撤回すべき
でありましょう。
◆そうでない、ということであれば、取り越し苦労ですが。
ただ、本願寺派の宗学の最高峰、龍谷大学の学長が、「安心」と
題して話をされたからには、当然、親鸞聖人の教えられた安心(信心)
についてのことだと、思いますけどね。