世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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日本で憲法といえば、聖徳太子の作られた「憲法十七条」が
その最初です。
そこで、聖徳太子は、
「あつく三宝をうやまえ。
三宝とは、仏・法・僧これなり。
すなわち四生の終帰、万国の極宗なり」
全人類の救われる唯一の教えが、仏法である。
ゆえに、これを説かれた仏様が宝である、
その仏の説かれた教え、法が宝である、
その法を正しく伝える、僧が宝である。
このように教えられ、聖徳太子は、日本に仏法を広められました。
なればこそ、わが祖師親鸞聖人は、
「和国の教主 聖徳皇」
日本のお釈迦さまである、とまで仰せになって、大変尊敬なさって
いるのです。
「僧が宝である」といわれるのは、しかし、あくまでも、正しい
教えを伝えていればこそ、です。
お釈迦様、親鸞聖人の教えを、曲げて伝える者は、断じて、
僧ではないし、もちろん宝ともいわれません。
衣を着て、袈裟をかけ、手に数珠もっていれば僧侶、というのでは
絶対にない、問題は説いている教えの正邪によるのだということを、
肝に銘じたいと思います。
その最初です。
そこで、聖徳太子は、
「あつく三宝をうやまえ。
三宝とは、仏・法・僧これなり。
すなわち四生の終帰、万国の極宗なり」
全人類の救われる唯一の教えが、仏法である。
ゆえに、これを説かれた仏様が宝である、
その仏の説かれた教え、法が宝である、
その法を正しく伝える、僧が宝である。
このように教えられ、聖徳太子は、日本に仏法を広められました。
なればこそ、わが祖師親鸞聖人は、
「和国の教主 聖徳皇」
日本のお釈迦さまである、とまで仰せになって、大変尊敬なさって
いるのです。
「僧が宝である」といわれるのは、しかし、あくまでも、正しい
教えを伝えていればこそ、です。
お釈迦様、親鸞聖人の教えを、曲げて伝える者は、断じて、
僧ではないし、もちろん宝ともいわれません。
衣を着て、袈裟をかけ、手に数珠もっていれば僧侶、というのでは
絶対にない、問題は説いている教えの正邪によるのだということを、
肝に銘じたいと思います。
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大型連休に、海外旅行、国内旅行、近所でレジャーと、
ふだんできないことをやって、楽しもうという方が多い
ことでしょう。
しかし、楽しいはずの旅行を終えて、家にもどるたび、
「ああ、我が家が一番だ」
とつぶやくのは、なぜでしょう。
楽しかったはずの旅行ですが、すぎてしまえば、
「ああ、明日から、また仕事かあ」
と、現実に引き戻されて、憂鬱になるのも、否めません。
美味しかったグルメの旅も、名所旧跡を眺めた楽しみも、
終わってみれば、思い出の一つになるだけで、その楽しみ
や喜びは、ながつづきするものではありません。
大型連休で、時間のあるときこそ、じっくりと聞法研鑽し、
祖師のみ教えを学ばせていただくご縁に、させていただき
たいものだと、私は思います。
「若きとき、仏法はたしなめ。
年よれば、行歩もかなわず、
ねむたくもあるなり。
ただ若きときたしなめ」(蓮如上人)
ふだんできないことをやって、楽しもうという方が多い
ことでしょう。
しかし、楽しいはずの旅行を終えて、家にもどるたび、
「ああ、我が家が一番だ」
とつぶやくのは、なぜでしょう。
楽しかったはずの旅行ですが、すぎてしまえば、
「ああ、明日から、また仕事かあ」
と、現実に引き戻されて、憂鬱になるのも、否めません。
美味しかったグルメの旅も、名所旧跡を眺めた楽しみも、
終わってみれば、思い出の一つになるだけで、その楽しみ
や喜びは、ながつづきするものではありません。
大型連休で、時間のあるときこそ、じっくりと聞法研鑽し、
祖師のみ教えを学ばせていただくご縁に、させていただき
たいものだと、私は思います。
「若きとき、仏法はたしなめ。
年よれば、行歩もかなわず、
ねむたくもあるなり。
ただ若きときたしなめ」(蓮如上人)
親鸞聖人、教行信証に、
「悲しきかな 愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、
定聚の数に入ることをよろこばず、真証の証に近づくことをたのし
まず、恥ずべし、傷むべし」
と仰せです。
「ああ、情けない親鸞だなぁ。愛欲の広海におぼれ、名誉欲と利益欲に
ふりまわされて、〝浄土へ往ける身になった(定聚の数に入る)こと〟
をよろこばず、〝仏のさとり(真証の証)に近づいていること〟も、
たのしまないとは。どこどこまでも痺れ切った奴だなぁ!
恥ずかしきことよ、悲しきことか」
このお言葉を聞いて、「私も、愛欲や、名利でいっぱいだ。親鸞様と
一緒だなあ。こんな私でも、死ねば極楽へ往かせて頂けるとは、なんと
有り難いことか!」と、よろこんでいる人が多いのですが、では、
「恥ずべし、傷むべし」という懺悔の心は、あるのでしょうか。
欲や怒りがあって当たり前、それがどうした、煩悩はいくらあっても
往生のさわりにはならないのだから、と、少しも懺悔の心はありません。
懺悔がないから、歓喜もない。これでは、親鸞聖人がこう仰せられた
御心とは、かけ離れていること千万里ではないでしょうか。
先日、ある人との会話で、ふと気になったことです。
「悲しきかな 愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、
定聚の数に入ることをよろこばず、真証の証に近づくことをたのし
まず、恥ずべし、傷むべし」
と仰せです。
「ああ、情けない親鸞だなぁ。愛欲の広海におぼれ、名誉欲と利益欲に
ふりまわされて、〝浄土へ往ける身になった(定聚の数に入る)こと〟
をよろこばず、〝仏のさとり(真証の証)に近づいていること〟も、
たのしまないとは。どこどこまでも痺れ切った奴だなぁ!
恥ずかしきことよ、悲しきことか」
このお言葉を聞いて、「私も、愛欲や、名利でいっぱいだ。親鸞様と
一緒だなあ。こんな私でも、死ねば極楽へ往かせて頂けるとは、なんと
有り難いことか!」と、よろこんでいる人が多いのですが、では、
「恥ずべし、傷むべし」という懺悔の心は、あるのでしょうか。
欲や怒りがあって当たり前、それがどうした、煩悩はいくらあっても
往生のさわりにはならないのだから、と、少しも懺悔の心はありません。
懺悔がないから、歓喜もない。これでは、親鸞聖人がこう仰せられた
御心とは、かけ離れていること千万里ではないでしょうか。
先日、ある人との会話で、ふと気になったことです。