世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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東本願寺で、9月30日、親鸞聖人の御真影を、もとの御影堂に
お移し申し上げる「還座式」が営まれました。
修復中であった御影堂が工事完了したのを受け、5年10ヶ月
ぶりに元の場所にお帰りになったことになります。
ここはやはり、地元京都新聞の記事から読んで頂きましょう。
東本願寺で還座式
<親鸞の「御真影」5年10カ月ぶり戻る
東本願寺で還座式 御影堂修復完了
真宗大谷派の本山・東本願寺(京都市下京区)で30日、
御影堂(ごえいどう)の修復完了に伴って、宗祖親鸞の
木像「御真影(ごしんねい)」を戻す還座(げんざ)式が
営まれた。僧侶や門信徒にとっての信仰のシンボルが、
5年10カ月ぶりに内陣の巨大な厨子(ずし)に安置された。
御真影(高さ90センチ)は鎌倉時代に親鸞自身が彫った
と伝わり、江戸初期の東本願寺建立以来、御影堂に安置
されてきた。2003年11月以来、阿弥陀(あみだ)堂に
移されていた。
午後1時すぎ、阿弥陀堂での勤行に続き、輿(こし)に
乗せられた御真影が、大谷暢顕(ちょうけん)門首、安原
晃宗務総長ら僧侶30人に伴われて御影堂に移された。午後
3時前、内陣の扉が開き、厨子(ずし)に安置された御真影
が姿を現すと、堂内を埋めた5千人近くの僧侶や門信徒が
合掌して念仏を唱えた。>
まあ、平日だったこともあるのでしょうが、5000人、
それでも現在の東本願寺(真宗大谷派)の現状を考えると、
よく集まったほうだと思われます。
親鸞聖人のご木像をこれだけ大事にされるのであれば、
その聖人のみ教えを、もっともっと大切に、正確に、伝える
使命を果たさねばならないのは、当然でしょう。
ご木像は大事にするが、教えは間違えて伝えている、という
ことでは、おかしな話ですからね。
お移し申し上げる「還座式」が営まれました。
修復中であった御影堂が工事完了したのを受け、5年10ヶ月
ぶりに元の場所にお帰りになったことになります。
ここはやはり、地元京都新聞の記事から読んで頂きましょう。
東本願寺で還座式
<親鸞の「御真影」5年10カ月ぶり戻る
東本願寺で還座式 御影堂修復完了
真宗大谷派の本山・東本願寺(京都市下京区)で30日、
御影堂(ごえいどう)の修復完了に伴って、宗祖親鸞の
木像「御真影(ごしんねい)」を戻す還座(げんざ)式が
営まれた。僧侶や門信徒にとっての信仰のシンボルが、
5年10カ月ぶりに内陣の巨大な厨子(ずし)に安置された。
御真影(高さ90センチ)は鎌倉時代に親鸞自身が彫った
と伝わり、江戸初期の東本願寺建立以来、御影堂に安置
されてきた。2003年11月以来、阿弥陀(あみだ)堂に
移されていた。
午後1時すぎ、阿弥陀堂での勤行に続き、輿(こし)に
乗せられた御真影が、大谷暢顕(ちょうけん)門首、安原
晃宗務総長ら僧侶30人に伴われて御影堂に移された。午後
3時前、内陣の扉が開き、厨子(ずし)に安置された御真影
が姿を現すと、堂内を埋めた5千人近くの僧侶や門信徒が
合掌して念仏を唱えた。>
まあ、平日だったこともあるのでしょうが、5000人、
それでも現在の東本願寺(真宗大谷派)の現状を考えると、
よく集まったほうだと思われます。
親鸞聖人のご木像をこれだけ大事にされるのであれば、
その聖人のみ教えを、もっともっと大切に、正確に、伝える
使命を果たさねばならないのは、当然でしょう。
ご木像は大事にするが、教えは間違えて伝えている、という
ことでは、おかしな話ですからね。
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聞法会館、10月の予定を見ていて、ぶったまげましたね。
10月25日の日曜講演は、「仏像って楽しい」と題して、
仏像ガールこと廣瀬郁美さんのお話なんですね。
どんな人かといえば、ここを参照してください。
→「仏像ガール」のサイトはコチラ
と、まあ、こんな人です。
それで、何をぶったまげたかというと、
「天親論主の論文、即ち、帰命尽十方無碍光如来をもって、
真宗の御本尊とあがめましましき」(改邪抄)
「当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」
(蓮如上人御一代記聞書)
とお聖教にも明らかなように、浄土真宗の正しい御本尊は
南無阿弥陀仏の御名号であります。
昨年改訂された宗制でも、「本尊:南無阿弥陀仏」と定め
られたことは、当ブログでも何度も紹介したとおりです。
木像、絵像の形像本尊ではなく、名号だと仰せなのにも
関わらず、仏像ガールさんに、形像について語らせるの
でしょうね。
いいんですか?それで・・・。
しかも、彼女のサイトを見れば分かるように、諸仏、諸菩薩、
諸神についても、語っているのですが、
「一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり」(御伝抄)
と仰せの通り、一向専念無量寿仏の我が宗において、諸仏、
諸菩薩の紹介をして、どうするつもり?
さらには、彼女のサイトを見ると、もうビックリ仰天!!
本師本仏の阿弥陀如来については、こんな説明をしています。
<阿弥陀如来
死んだあと、ハッピーにしてくれる人!
「極楽浄土(ごくらくじょうど)」とよく言われる、
「極楽」というのは、この阿弥陀如来さまのいらっ
しゃる場所なんです。>
おいおい!って感じでしょ。
阿弥陀如来は、この世から、未来永劫助けて下されるから、
不体失往生、現生不退、平生業成といわれ、浄土真宗の一枚看板
ではありませんか。
「死んだあとハッピーに」じゃなくて、「この世からハッピーに」
でしょ!
こんな程度の人間に、話をさせるのですか。
それが「聞法会館」を使ってやることですか。
あきれてものが言えない、って感じです。
10月25日の日曜講演は、「仏像って楽しい」と題して、
仏像ガールこと廣瀬郁美さんのお話なんですね。
どんな人かといえば、ここを参照してください。
→「仏像ガール」のサイトはコチラ
と、まあ、こんな人です。
それで、何をぶったまげたかというと、
「天親論主の論文、即ち、帰命尽十方無碍光如来をもって、
真宗の御本尊とあがめましましき」(改邪抄)
「当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」
(蓮如上人御一代記聞書)
とお聖教にも明らかなように、浄土真宗の正しい御本尊は
南無阿弥陀仏の御名号であります。
昨年改訂された宗制でも、「本尊:南無阿弥陀仏」と定め
られたことは、当ブログでも何度も紹介したとおりです。
木像、絵像の形像本尊ではなく、名号だと仰せなのにも
関わらず、仏像ガールさんに、形像について語らせるの
でしょうね。
いいんですか?それで・・・。
しかも、彼女のサイトを見れば分かるように、諸仏、諸菩薩、
諸神についても、語っているのですが、
「一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり」(御伝抄)
と仰せの通り、一向専念無量寿仏の我が宗において、諸仏、
諸菩薩の紹介をして、どうするつもり?
さらには、彼女のサイトを見ると、もうビックリ仰天!!
本師本仏の阿弥陀如来については、こんな説明をしています。
<阿弥陀如来
死んだあと、ハッピーにしてくれる人!
「極楽浄土(ごくらくじょうど)」とよく言われる、
「極楽」というのは、この阿弥陀如来さまのいらっ
しゃる場所なんです。>
おいおい!って感じでしょ。
阿弥陀如来は、この世から、未来永劫助けて下されるから、
不体失往生、現生不退、平生業成といわれ、浄土真宗の一枚看板
ではありませんか。
「死んだあとハッピーに」じゃなくて、「この世からハッピーに」
でしょ!
こんな程度の人間に、話をさせるのですか。
それが「聞法会館」を使ってやることですか。
あきれてものが言えない、って感じです。
ラジオ「みほとけとともに 西本願寺の時間」では、
『金沢での本願寺展によせて』と題して、龍谷大学教授
で、本願寺史料研究所所長の赤松徹眞(あかまつてっしん)
氏のお話でした。
さすが史料研究所所長だけに、各種の歴史的資料に
ついての解説は詳しいですが、最後、
「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛仁の暦、
雑行を棄てて、本願に帰す」(教行信証後序)
のお言葉を挙げられていました。
これについてのご解説がなかったのは、残念でした。
「親鸞聖人の信は、弥陀の本願に帰すところに成立する」
とだけ、あっさり述べられていますが、おや?抜けている!
と気付かれた方も多いでしょう。
そうです。
「雑行を棄てて」
の部分が、全く触れられていないのです。
「雑行」とは何か、それを「棄てる」とはどういうことか。
蓮如上人も「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて」と
教えられ、両聖人ともに、「雑行(自力)を棄てねば、本願
(他力)に帰することはできない」と仰せです。
赤松氏、なぜこの部分に触れられなかったのか。
これほど大事なキーワード、ぜひ明らかにして欲しかったと
思いました。
それとも、原稿監査で、削られたのかも知れませんね。
『金沢での本願寺展によせて』と題して、龍谷大学教授
で、本願寺史料研究所所長の赤松徹眞(あかまつてっしん)
氏のお話でした。
さすが史料研究所所長だけに、各種の歴史的資料に
ついての解説は詳しいですが、最後、
「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛仁の暦、
雑行を棄てて、本願に帰す」(教行信証後序)
のお言葉を挙げられていました。
これについてのご解説がなかったのは、残念でした。
「親鸞聖人の信は、弥陀の本願に帰すところに成立する」
とだけ、あっさり述べられていますが、おや?抜けている!
と気付かれた方も多いでしょう。
そうです。
「雑行を棄てて」
の部分が、全く触れられていないのです。
「雑行」とは何か、それを「棄てる」とはどういうことか。
蓮如上人も「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて」と
教えられ、両聖人ともに、「雑行(自力)を棄てねば、本願
(他力)に帰することはできない」と仰せです。
赤松氏、なぜこの部分に触れられなかったのか。
これほど大事なキーワード、ぜひ明らかにして欲しかったと
思いました。
それとも、原稿監査で、削られたのかも知れませんね。