世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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本願寺新報に掲載された「みんなの法話」、ネットでも
読めますが、奈良県の西光 義秀氏の「いつでも どこ
でも だれでも」が掲載されていました。
→全文へのリンクはこちら!
そのラストの部分に、こう言われています。
「何よりも、"わが名を称えよ"と阿弥陀さまがよび続けられ、
願い続けられているのです。そのおこころを、とことんまで
聞かせていただくのが聴聞なのです。」
「とことんまで聞かせていただくのが聴聞」とのこと。
とことんまで、とは、どこまでなのか。
そこを、親鸞聖人のお言葉で、聞かせていただきましょう。
「聞というは、衆生、仏願の生起本末をききて疑心あることなし。
これを聞というなり」(教行信証信巻)
ここは、本願成就文の「聞其名号」の聞について、述べられた
ところです。
衆生とは、私たち、すべての者です。
仏願とは、阿弥陀仏の本願のことです。
生起とは、生まれ起こされた、ということで、阿弥陀仏が本願を
建てられた、ということです。
その本末とは、もとから、末まで、です。
なぜ、阿弥陀仏は、本願を建てられねばならなかったか、
そのもとから末まで、聞かせていただいて、それに「疑心ある
ことなし」疑いの心、あることなし、となったことを、「聞」と
いうのだ、と仰せです。
「あることなし」ですから、今、一時、なくなるだけでなく、
ずっとないこと、金輪際なくなったことを、「あることなし」と
言われているのです。
ゆえに、浄土真宗では、「聞」とは「信」のことであり、故に
正信偈では、「聞信如来弘誓願 如来の弘誓願を聞信すれば」と
言われています。
では、その仏願の生起本末とは、どういうことか。
折を見て、また書かせていただきたいと思います。
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