忍者ブログ
世界の光・親鸞聖人の教えを世界に! 夢は大きく、現状には厳しい目を!
[555]  [554]  [553]  [552]  [551]  [550]  [549]  [548]  [547]  [546]  [545
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

8月26日、滋賀県米原市で行われる「親鸞聖人鑽仰会記念大会」を
案内した、S県T町のC寺の寺報74号に、こんな文章がありました。

「礼拝・称名・憶念の三業を、その日々において、自分自身の生活
習慣行として身につけ、それを相続して深化していくならばやがて
確かに阿弥陀仏の声を聞くことができる、そういう聞名体験が成立
してまことの信心がひらかれてくるというわけです」

 これだと、「自分自身の生活習慣行」という自力の行によって、
「まことの信心」=他力の信心をえられることになりはしませんか?
 読まれた皆さん、いかがでしょう。
PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
無題
礼拝・称名・憶念によって、宿善が厚くなって、信心頂ける、という意味で言われたのではないでしょうか?
ぺんぺん草 2009/08/08(Sat)11:10:35 編集
無題
「宿善というものも待っていて来るものではなく、努力精進して求めてゆくものである。かかる人にこそ宿善到来ということがあるのである。」

これだと「努力精進して宿善を求める」という自力の行によって、「宿善到来」=他力信心をえられることになりはしませんか?

読まれたTAXIさん、いかがでしょう?
(逃げずに答えてください)
いかがでしょう? 2009/08/08(Sat)11:16:21 編集
宿善について
C寺さんの寺報には、「宿善」とは一言もありません。
よって、「宿善」を無理やり押し込んでこれを解釈されているお二人の説では、
寺報の文章の解説にはならないと思いますが、いかがでしょうか?
また「宿善」の語を使われるのであれば、「宿善」と「信心」の関係を
説明された上で、お使いいただけますでしょうか。
このブログを読まれている方で、「宿善」についてご存じないかたも
多いと思われますので、よろしくお願いします。
管理人 2009/08/08(Sat)20:44:43 編集
無題
仮にこう解釈したらどうか?、というのを示したまでです。解説というほどではありません。
私の言ったようなことがC寺さんの寺報の本意であるかどうか、確信はありません。

宿善と信心の関係ですが、私自身、まだ詳しいことは理解できていません。
聞いた話では、
「過去世に仏縁薄き者、宿善浅きものは、現世に於て宿善は求められねばならない。
でなければ、宿善開発の時節到来ということはあり得ない。」
と主張している人もいるそうです。
なので、その主張を正しいとしてみたら、上のような解釈もありえるのではないかと思いました。
もっとも、この主張が正しいのか私は断言できませんが。

「管理人様の解釈は間違っている、私の解釈が正しい」ではなく、
「管理人様の解釈以外にも、私のような解釈も可能なのでは?」
と言いたかったのです。

管理人様は宿善と信心の関係についてご存知でしょうか?
ご存知でしたら、この機会に教えていただけるとありがたいです。
ぺんぺん草 2009/08/08(Sat)21:20:25 編集
無題
「財施などの善をしていけば、やがて善のできない我が身が知らされ、阿弥陀仏の声を聞くことができる」と言っている団体がありますね。これだと、「自分自身の善」という自力の行によって他力の信心をえられることになりはしませんか? この寺の方が阿弥陀仏に向かっているので、ましだとおもいます。
NONAME 2009/08/11(Tue)00:06:07 編集
カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
忍者アド
このブログの中を検索できます
最新コメント
[02/07 NONAME]
[05/14 管理人]
[05/13 リーズル]
カウンター
アクセス解析
バーコード
このブログを携帯でご覧になる方は このコードを読ませてください。
プロフィール
HN:
TAXI
年齢:
64
性別:
男性
誕生日:
1960/10/31
職業:
真宗関係
趣味:
音楽・映画・地図を眺める
忍者ブログ [PR]