世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
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8月26日、滋賀県米原市で行われる「親鸞聖人鑽仰会記念大会」を
案内した、S県T町のC寺の寺報74号に、こんな文章がありました。
「礼拝・称名・憶念の三業を、その日々において、自分自身の生活
習慣行として身につけ、それを相続して深化していくならばやがて
確かに阿弥陀仏の声を聞くことができる、そういう聞名体験が成立
してまことの信心がひらかれてくるというわけです」
これだと、「自分自身の生活習慣行」という自力の行によって、
「まことの信心」=他力の信心をえられることになりはしませんか?
読まれた皆さん、いかがでしょう。
案内した、S県T町のC寺の寺報74号に、こんな文章がありました。
「礼拝・称名・憶念の三業を、その日々において、自分自身の生活
習慣行として身につけ、それを相続して深化していくならばやがて
確かに阿弥陀仏の声を聞くことができる、そういう聞名体験が成立
してまことの信心がひらかれてくるというわけです」
これだと、「自分自身の生活習慣行」という自力の行によって、
「まことの信心」=他力の信心をえられることになりはしませんか?
読まれた皆さん、いかがでしょう。
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無題
「宿善というものも待っていて来るものではなく、努力精進して求めてゆくものである。かかる人にこそ宿善到来ということがあるのである。」
これだと「努力精進して宿善を求める」という自力の行によって、「宿善到来」=他力信心をえられることになりはしませんか?
読まれたTAXIさん、いかがでしょう?
(逃げずに答えてください)
これだと「努力精進して宿善を求める」という自力の行によって、「宿善到来」=他力信心をえられることになりはしませんか?
読まれたTAXIさん、いかがでしょう?
(逃げずに答えてください)
宿善について
C寺さんの寺報には、「宿善」とは一言もありません。
よって、「宿善」を無理やり押し込んでこれを解釈されているお二人の説では、
寺報の文章の解説にはならないと思いますが、いかがでしょうか?
また「宿善」の語を使われるのであれば、「宿善」と「信心」の関係を
説明された上で、お使いいただけますでしょうか。
このブログを読まれている方で、「宿善」についてご存じないかたも
多いと思われますので、よろしくお願いします。
よって、「宿善」を無理やり押し込んでこれを解釈されているお二人の説では、
寺報の文章の解説にはならないと思いますが、いかがでしょうか?
また「宿善」の語を使われるのであれば、「宿善」と「信心」の関係を
説明された上で、お使いいただけますでしょうか。
このブログを読まれている方で、「宿善」についてご存じないかたも
多いと思われますので、よろしくお願いします。
無題
仮にこう解釈したらどうか?、というのを示したまでです。解説というほどではありません。
私の言ったようなことがC寺さんの寺報の本意であるかどうか、確信はありません。
宿善と信心の関係ですが、私自身、まだ詳しいことは理解できていません。
聞いた話では、
「過去世に仏縁薄き者、宿善浅きものは、現世に於て宿善は求められねばならない。
でなければ、宿善開発の時節到来ということはあり得ない。」
と主張している人もいるそうです。
なので、その主張を正しいとしてみたら、上のような解釈もありえるのではないかと思いました。
もっとも、この主張が正しいのか私は断言できませんが。
「管理人様の解釈は間違っている、私の解釈が正しい」ではなく、
「管理人様の解釈以外にも、私のような解釈も可能なのでは?」
と言いたかったのです。
管理人様は宿善と信心の関係についてご存知でしょうか?
ご存知でしたら、この機会に教えていただけるとありがたいです。
私の言ったようなことがC寺さんの寺報の本意であるかどうか、確信はありません。
宿善と信心の関係ですが、私自身、まだ詳しいことは理解できていません。
聞いた話では、
「過去世に仏縁薄き者、宿善浅きものは、現世に於て宿善は求められねばならない。
でなければ、宿善開発の時節到来ということはあり得ない。」
と主張している人もいるそうです。
なので、その主張を正しいとしてみたら、上のような解釈もありえるのではないかと思いました。
もっとも、この主張が正しいのか私は断言できませんが。
「管理人様の解釈は間違っている、私の解釈が正しい」ではなく、
「管理人様の解釈以外にも、私のような解釈も可能なのでは?」
と言いたかったのです。
管理人様は宿善と信心の関係についてご存知でしょうか?
ご存知でしたら、この機会に教えていただけるとありがたいです。