世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」
有名な親鸞聖人の恩徳讃である。
金剛の真心を獲た一念に、入正定聚の益など、現生に
十の利益をたまわるのみならず、死ぬと同時に、弥陀
の浄土へ往生させていただける、現当二益の幸せに、
ただ今助けたもうた「如来大悲」阿弥陀如来の広大な
ご恩は、「身を粉にしても」お返しせずにおれない。
その弥陀の救いを、親鸞まで伝えて下された、歴代の
善知識、いわゆる、釈迦と七高僧「師主知識」のご恩
も、骨を砕きても、返さずにおれないとのお気持ちを
おっしゃったお言葉です。
自称、信心獲得したといいながら、少しもご恩報謝の
活動が見られない輩は、いったい、どういうことか。
あるのはただ、「こんな苦労をした」「こんなに苦労
して求めた」「だけら救われたのだ」という自慢体験
ばかりである。
聖人の開顕された他力真実の信心とは、天地雲泥の差
である。
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」
有名な親鸞聖人の恩徳讃である。
金剛の真心を獲た一念に、入正定聚の益など、現生に
十の利益をたまわるのみならず、死ぬと同時に、弥陀
の浄土へ往生させていただける、現当二益の幸せに、
ただ今助けたもうた「如来大悲」阿弥陀如来の広大な
ご恩は、「身を粉にしても」お返しせずにおれない。
その弥陀の救いを、親鸞まで伝えて下された、歴代の
善知識、いわゆる、釈迦と七高僧「師主知識」のご恩
も、骨を砕きても、返さずにおれないとのお気持ちを
おっしゃったお言葉です。
自称、信心獲得したといいながら、少しもご恩報謝の
活動が見られない輩は、いったい、どういうことか。
あるのはただ、「こんな苦労をした」「こんなに苦労
して求めた」「だけら救われたのだ」という自慢体験
ばかりである。
聖人の開顕された他力真実の信心とは、天地雲泥の差
である。
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8月21日の中日新聞に、東大文学部の島薗進教授の
「来世信仰と限りなき生命」という小論に、蓮如上人の
「白骨の御文章」が引用されている。
まあ、通常読めばこうなるだろうという解説である。
「人生は幻のようなはかないもので、死はいつ襲ってくる
かもわからない。自分の死は遠い先だろうなどと油断は
できない。
極楽往生の為の信心をして阿弥陀仏のもとに行くのか、
地獄に堕ちるのかの分かれ目が、もうすぐそこまで来て
いる」
「信心をして」としか理解できないのだろうが、親鸞聖人の
教えられる信心は、他力回向の信心であり、弥陀より賜る信
心であるから、「信心獲得」「信を獲る」などと言われ、決
して「信心する」とは言わない。言ってはならない。
東大教授だろうが、国際宗教研究所長だろうが、親鸞聖人
の教えに関しては、まだまだ大いに勉強してもらわねばなら
ぬといえよう。
「来世信仰と限りなき生命」という小論に、蓮如上人の
「白骨の御文章」が引用されている。
まあ、通常読めばこうなるだろうという解説である。
「人生は幻のようなはかないもので、死はいつ襲ってくる
かもわからない。自分の死は遠い先だろうなどと油断は
できない。
極楽往生の為の信心をして阿弥陀仏のもとに行くのか、
地獄に堕ちるのかの分かれ目が、もうすぐそこまで来て
いる」
「信心をして」としか理解できないのだろうが、親鸞聖人の
教えられる信心は、他力回向の信心であり、弥陀より賜る信
心であるから、「信心獲得」「信を獲る」などと言われ、決
して「信心する」とは言わない。言ってはならない。
東大教授だろうが、国際宗教研究所長だろうが、親鸞聖人
の教えに関しては、まだまだ大いに勉強してもらわねばなら
ぬといえよう。
日本史では、しばしば「一向宗門徒」「一向一揆」など、
浄土真宗を、一向宗と呼ばれている。
現在でも、時々、耳にすることがある。
なぜだろう。
蓮如上人にも、これを問うた人があったようだ。次のよう
に答えて下さっている。
[一帖目第十五通] 宗名・当流世間
問うていわく、「当流をみな世間に流布して、一向宗と
なづけ候うは、いかようなる子細にて候うやらん、不審に
おぼえ候う。」
答えていわく、「あながちに、わが流を一向宗となのる
ことは、別して祖師もさだめられず、おおよそ阿弥陀仏を
一向にたのむによりて、みな人のもうしなすゆえなり。
しかりといえども、経文に「一向専念無量寿仏」(大経)
とときたもうゆえに、一向に無量寿仏を念ぜよといえるこ
ころなるときは、一向宗ともうしたるも子細なし。さりな
がら開山は、この宗をば淨土真宗とこそさだめたまえり。
されば一向宗という名言は、さらに本宗よりもうさぬなり
としるべし。
されば、自餘の浄土宗は、もろもろの雑行をゆるす、
わが聖人は雑行をえらびたもう。このゆえに真實報土の
往生をとぐるなり。このいわれあるがゆえに、別して眞
の字をいれたもうなり。」
かくほどに、浄土真宗では、一向専念無量寿仏を徹底して
教えられていた。
弥陀よりほかの、諸仏、菩薩、諸神、もちろん外道の類にも
一切礼拝せず、供養もしない。
弥陀一仏に向かうこと、末端の門徒に至るまで、徹底されて
いたことが分かります。
しかるに、現代はどうか。
釈迦一代の教えの結論、往生の肝腑、自宗の骨目たる、
「一向専念無量寿仏」を、ご門徒に、どれだけ徹底して
いるか。
猛省を促さねばなるまい。
浄土真宗を、一向宗と呼ばれている。
現在でも、時々、耳にすることがある。
なぜだろう。
蓮如上人にも、これを問うた人があったようだ。次のよう
に答えて下さっている。
[一帖目第十五通] 宗名・当流世間
問うていわく、「当流をみな世間に流布して、一向宗と
なづけ候うは、いかようなる子細にて候うやらん、不審に
おぼえ候う。」
答えていわく、「あながちに、わが流を一向宗となのる
ことは、別して祖師もさだめられず、おおよそ阿弥陀仏を
一向にたのむによりて、みな人のもうしなすゆえなり。
しかりといえども、経文に「一向専念無量寿仏」(大経)
とときたもうゆえに、一向に無量寿仏を念ぜよといえるこ
ころなるときは、一向宗ともうしたるも子細なし。さりな
がら開山は、この宗をば淨土真宗とこそさだめたまえり。
されば一向宗という名言は、さらに本宗よりもうさぬなり
としるべし。
されば、自餘の浄土宗は、もろもろの雑行をゆるす、
わが聖人は雑行をえらびたもう。このゆえに真實報土の
往生をとぐるなり。このいわれあるがゆえに、別して眞
の字をいれたもうなり。」
かくほどに、浄土真宗では、一向専念無量寿仏を徹底して
教えられていた。
弥陀よりほかの、諸仏、菩薩、諸神、もちろん外道の類にも
一切礼拝せず、供養もしない。
弥陀一仏に向かうこと、末端の門徒に至るまで、徹底されて
いたことが分かります。
しかるに、現代はどうか。
釈迦一代の教えの結論、往生の肝腑、自宗の骨目たる、
「一向専念無量寿仏」を、ご門徒に、どれだけ徹底して
いるか。
猛省を促さねばなるまい。