世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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卒業のシーズンです。
慣れ親しんだ学び舎をあとに、次の人生に進んでいかれる
皆さんの、活躍を願うばかりです。
さて、「信仰に卒業があるのですか」とよく聞かれます。
他の宗教、宗派ではなく、親鸞聖人の教えには、ということ
でありましょう。
答えは、もちろん、有ります。
「そもそも、親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして」
(御文章一帖四通)
と教えられるように、親鸞聖人の教えの一枚看板は平生業成
です。これは、
「平生の一念によりて往生の得否はさだまるものなり」(執持抄)
と仰せの通り、弥陀の本願に一念で救い摂られ、報土往生が
ハッキリと定まったことを、「業事成弁」略して「業成」と
言われています。
そのときが、信仰の卒業であり、決勝点であります。
親鸞聖人は、『教行信証』に
「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行をすてて本願に帰す」
と、明記しておられます。
ところが、こうお話ししたところ、「そんな話、初めてだ」と
驚かれてしまいました。
世界の光、親鸞聖人の教えが、伝えられていないのだなあと
実感したことでした。
慣れ親しんだ学び舎をあとに、次の人生に進んでいかれる
皆さんの、活躍を願うばかりです。
さて、「信仰に卒業があるのですか」とよく聞かれます。
他の宗教、宗派ではなく、親鸞聖人の教えには、ということ
でありましょう。
答えは、もちろん、有ります。
「そもそも、親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして」
(御文章一帖四通)
と教えられるように、親鸞聖人の教えの一枚看板は平生業成
です。これは、
「平生の一念によりて往生の得否はさだまるものなり」(執持抄)
と仰せの通り、弥陀の本願に一念で救い摂られ、報土往生が
ハッキリと定まったことを、「業事成弁」略して「業成」と
言われています。
そのときが、信仰の卒業であり、決勝点であります。
親鸞聖人は、『教行信証』に
「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行をすてて本願に帰す」
と、明記しておられます。
ところが、こうお話ししたところ、「そんな話、初めてだ」と
驚かれてしまいました。
世界の光、親鸞聖人の教えが、伝えられていないのだなあと
実感したことでした。
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3月3日は、桃の節句、でもありますが、もう一つ、「耳の日」
でもあります。
3の字が耳の形に似ているから、また、3(み)3(み)という
語呂合わせから、54年前に制定されました。
耳といえば、聞く。
仏法を聞く心構えを、釈迦は、
「たとい大火ありて、三千大千世界に充満せんに、必ずまさに
これを過ぎて、この経法を聞きて」(大無量寿経)
と仰せられ、親鸞聖人もまた、
「たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏のみ名をきく人は
ながく不退になかうなり」(浄土和讃)
いずれも、火中突破の、決死の聞法をすすめておられます。
さて、今の各寺院での説教で、そんな聞法を、果たして勧められて
いるでしょうか。
でもあります。
3の字が耳の形に似ているから、また、3(み)3(み)という
語呂合わせから、54年前に制定されました。
耳といえば、聞く。
仏法を聞く心構えを、釈迦は、
「たとい大火ありて、三千大千世界に充満せんに、必ずまさに
これを過ぎて、この経法を聞きて」(大無量寿経)
と仰せられ、親鸞聖人もまた、
「たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏のみ名をきく人は
ながく不退になかうなり」(浄土和讃)
いずれも、火中突破の、決死の聞法をすすめておられます。
さて、今の各寺院での説教で、そんな聞法を、果たして勧められて
いるでしょうか。
人気漫才コンビの、有名なギャグに、
「そんなこと言われたら、往生しまっせえー」
というのがあります。
お客さんは、ここで大笑いとなるのですが、
私達は、笑っておれないところです。
「往生」というのを、「困った」とか「弱った」
という意味で誤用しているからです。
他には「隣のおばあさん、今朝、往生したそうだ」
とか「弁慶の立ち往生」のように、「死んだ」
ことを、「往生」と言っております。
これは、全くの間違いです。
字を見ても判りますように、「往生」の「往」は
往く、という字であり、「生」は生まれるという
ことですから、「困る」とか「死ぬ」という意味は
どこにも、見当たりません。
それどころか、その反対です。
「若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜する人は
往生必ず定まりぬ」(浄土和讃)
親鸞聖人は仰せです。この「往生」を、「困る」とか
「死ぬ」という意味で読んだら、たいへんな間違い
になることは、明らかです。
「往生」の語源は仏教にあるのですから、特に
親鸞聖人の教えにおいては、極めて重要な仏語
ですから、その誤用を正し、正しい意味を明ら
かにしなければならないと思いました。
なお、「往生」の正しい意味について、こちらなど
参考にされてはいかがでしょうか。
親鸞聖人の「体失不体失往生の諍論」について
「そんなこと言われたら、往生しまっせえー」
というのがあります。
お客さんは、ここで大笑いとなるのですが、
私達は、笑っておれないところです。
「往生」というのを、「困った」とか「弱った」
という意味で誤用しているからです。
他には「隣のおばあさん、今朝、往生したそうだ」
とか「弁慶の立ち往生」のように、「死んだ」
ことを、「往生」と言っております。
これは、全くの間違いです。
字を見ても判りますように、「往生」の「往」は
往く、という字であり、「生」は生まれるという
ことですから、「困る」とか「死ぬ」という意味は
どこにも、見当たりません。
それどころか、その反対です。
「若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜する人は
往生必ず定まりぬ」(浄土和讃)
親鸞聖人は仰せです。この「往生」を、「困る」とか
「死ぬ」という意味で読んだら、たいへんな間違い
になることは、明らかです。
「往生」の語源は仏教にあるのですから、特に
親鸞聖人の教えにおいては、極めて重要な仏語
ですから、その誤用を正し、正しい意味を明ら
かにしなければならないと思いました。
なお、「往生」の正しい意味について、こちらなど
参考にされてはいかがでしょうか。
親鸞聖人の「体失不体失往生の諍論」について