世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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ラジオ法話「みほとけとともに 西本願寺の時間」では、
登尾唯信氏の「挫折もまた人生」でした。
豆腐を運んでいた少年が、転んで、豆腐を落としてしまっ
たけれども、豆腐屋さんは「お母さんに謝るしかないな」
と言い、お母さんは、「まだここは食べれるからね」と、
少年をとがめなかった、そこに、阿弥陀如来の慈悲を見て
云々・・・・。
途中、聖人のお言葉を少し出しているとはいえ、全編これ
「私は、このように味わいました」という自己流の解釈で
終始しています。
あなたのその解釈が、祖師の御心にかなうのか、どうか。
それは、祖師のお言葉を示して、明らかにせねばならぬと
ころですが、それがなければ、「自己流の解釈」といわれ
てもしかたありません。
「聖人一流のご勧化のおもむきは」
「祖師聖人ご相伝一流の肝要は」
「それ聖人のご一流においては」
常に、親鸞聖人の御心一つ、明らかにされた蓮如上人です。
「さらに親鸞珍しき法をもひろめず。
如来の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」
親鸞聖人は、常に、釈迦如来の教法=仏教一つ明らかにされ
ました。
「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」
釈迦は、一代、阿弥陀如来の本願一つ説かれました。
さすれば、弥陀の本願を、釈迦もそれ一つ教えられ、祖師も
それ一つを明らかにされ、蓮如上人も無我に相承していかれ
たのでした。
上記のラジオ法話は、とても、その御一流からは大きくかけ
はなれたと、言わざるを得ません。
登尾唯信氏の「挫折もまた人生」でした。
豆腐を運んでいた少年が、転んで、豆腐を落としてしまっ
たけれども、豆腐屋さんは「お母さんに謝るしかないな」
と言い、お母さんは、「まだここは食べれるからね」と、
少年をとがめなかった、そこに、阿弥陀如来の慈悲を見て
云々・・・・。
途中、聖人のお言葉を少し出しているとはいえ、全編これ
「私は、このように味わいました」という自己流の解釈で
終始しています。
あなたのその解釈が、祖師の御心にかなうのか、どうか。
それは、祖師のお言葉を示して、明らかにせねばならぬと
ころですが、それがなければ、「自己流の解釈」といわれ
てもしかたありません。
「聖人一流のご勧化のおもむきは」
「祖師聖人ご相伝一流の肝要は」
「それ聖人のご一流においては」
常に、親鸞聖人の御心一つ、明らかにされた蓮如上人です。
「さらに親鸞珍しき法をもひろめず。
如来の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」
親鸞聖人は、常に、釈迦如来の教法=仏教一つ明らかにされ
ました。
「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」
釈迦は、一代、阿弥陀如来の本願一つ説かれました。
さすれば、弥陀の本願を、釈迦もそれ一つ教えられ、祖師も
それ一つを明らかにされ、蓮如上人も無我に相承していかれ
たのでした。
上記のラジオ法話は、とても、その御一流からは大きくかけ
はなれたと、言わざるを得ません。
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無題
私も、自己流の解釈をする布教師を知っています。
例えば、親鸞聖人のご和讃の
若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜する人は
往生かならずさだまりぬ
の解釈を
若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
信楽の心になれる時が必ず来るんだ
一念の信心を喜んでいる人は
死ねば極楽往生間違いないんだ
と解釈しています。
管理人様ならご存知だと思いますが、このご和讃は
若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
信楽の心にまことに時至って(信楽の心を阿弥陀仏から頂いて)
一念の信心を喜んでいる人は
死ねば極楽往生間違いないんだ
と解釈されます。
ご自分の味わいとしてならば、宜しいとはおもいますが....。
例えば、親鸞聖人のご和讃の
若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜する人は
往生かならずさだまりぬ
の解釈を
若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
信楽の心になれる時が必ず来るんだ
一念の信心を喜んでいる人は
死ねば極楽往生間違いないんだ
と解釈しています。
管理人様ならご存知だと思いますが、このご和讃は
若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
信楽の心にまことに時至って(信楽の心を阿弥陀仏から頂いて)
一念の信心を喜んでいる人は
死ねば極楽往生間違いないんだ
と解釈されます。
ご自分の味わいとしてならば、宜しいとはおもいますが....。