世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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本願寺派布教使、大阪府瑞松寺の野村康治住職が、
またまた「みほとけとともに 西本願寺の時間」で
こんなこと、言っていました。
親鸞聖人と、ある人との問答が、書物に記されている、
との語りだしで、
「親鸞聖人『亡くなった人にあいたければ、お浄土に訪ねて
いきなさい』
ある人『お浄土へ生まれるにはどうすればよいのですか』
親鸞聖人『お念仏一つですよ』」
さて、どの書物か、ということは住職サン、言わなかった。
死んだ人は、全員、弥陀の浄土に往っている、とでも、
住職サン、言いたいのか。念仏称えれば、誰でもお浄土へ
往ける、と、称名正因の邪義を押し立てるのか。
先日、いただいたメールで「批判ばかりでなく、建設的な
意見を」と親切にアドバイスくだされた方があったので、
以下、それを書きます。
弥陀の浄土に生まれるには、どうすればよいのか。
親鸞聖人は、こう仰せである。
「涅槃の真因は唯信心を以てす。」(教行信証信巻)
「弥陀如来廻向の真実信心を阿耨菩提の因とすべしとなり。」
(尊号真像銘文)
近くは、正信偈にも、明らかに仰せである。
「速入寂静無為楽 必以信心為能入」
ゆえに、蓮如上人も仰せである。
「一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人
ながら、みな浄土に往生すべき事更に疑なし。」(御文章)
お浄土に生まれる因は、真実信心、唯一つであると明らかである。
これを「信心正因」といわれ、親鸞聖人の教えは「唯信独達」と
言われるのだ。
この真宗の肝要を、なぜ言えぬのか?
すでにして本願寺に、この肝要を知る者がいないからと思わざる
をえない。
またまた「みほとけとともに 西本願寺の時間」で
こんなこと、言っていました。
親鸞聖人と、ある人との問答が、書物に記されている、
との語りだしで、
「親鸞聖人『亡くなった人にあいたければ、お浄土に訪ねて
いきなさい』
ある人『お浄土へ生まれるにはどうすればよいのですか』
親鸞聖人『お念仏一つですよ』」
さて、どの書物か、ということは住職サン、言わなかった。
死んだ人は、全員、弥陀の浄土に往っている、とでも、
住職サン、言いたいのか。念仏称えれば、誰でもお浄土へ
往ける、と、称名正因の邪義を押し立てるのか。
先日、いただいたメールで「批判ばかりでなく、建設的な
意見を」と親切にアドバイスくだされた方があったので、
以下、それを書きます。
弥陀の浄土に生まれるには、どうすればよいのか。
親鸞聖人は、こう仰せである。
「涅槃の真因は唯信心を以てす。」(教行信証信巻)
「弥陀如来廻向の真実信心を阿耨菩提の因とすべしとなり。」
(尊号真像銘文)
近くは、正信偈にも、明らかに仰せである。
「速入寂静無為楽 必以信心為能入」
ゆえに、蓮如上人も仰せである。
「一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人
ながら、みな浄土に往生すべき事更に疑なし。」(御文章)
お浄土に生まれる因は、真実信心、唯一つであると明らかである。
これを「信心正因」といわれ、親鸞聖人の教えは「唯信独達」と
言われるのだ。
この真宗の肝要を、なぜ言えぬのか?
すでにして本願寺に、この肝要を知る者がいないからと思わざる
をえない。
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無題
出拠を問われているのではないのじゃないかなぁ~。
あなたの「お念仏」の領解を聞かれてるのじゃないでしょうか?
私もあえてお聞きしたい。お聖教の文言ではなく、あなた自身の咀嚼された言葉でお願いします。
期待しています。
お念仏は
親鸞聖人、蓮如上人が仰せの通り、お念仏は
阿弥陀如来の本願に、救い摂られたお礼です。
両聖人の仰せられたお言葉は、前回記した通りです。
なお、私が「どう思うか」は、この際、何の関係もありません。
私の意見や考えなど、何の価値もありません。
当ブログを開設した目的は、唯一つ、
親鸞聖人の教えを明らかにすることだけです。
私の考えを披瀝するところではありません。
どうぞよろしく。
阿弥陀如来の本願に、救い摂られたお礼です。
両聖人の仰せられたお言葉は、前回記した通りです。
なお、私が「どう思うか」は、この際、何の関係もありません。
私の意見や考えなど、何の価値もありません。
当ブログを開設した目的は、唯一つ、
親鸞聖人の教えを明らかにすることだけです。
私の考えを披瀝するところではありません。
どうぞよろしく。
無題
ありがとうございます。
ただ私は「あなたの、お念仏の領解を、あなた自身の咀嚼された言葉で」お聞きしたいと申し上げたのです。
たしかに、あなた自身が書いておられるように、あなたの思いや意見など、なんの価値もありません。
(結構、意見・私見もあると思いますが、それはさておき)
親鸞聖人の教えを明らかにすることが、このブログ開設の目的とありますが、教えは、「聖教にこう説かれてる」だけでは本当の意味で明らかにはならないのでは?
教えは衆生の苦悩の人生の上にこそ明らかになるのではありませんか?
でなければ、ただの科学(聞き分ける・知識)に終わり、信心(聞きひらく)とは言えないのではないでしょうか?
その意味合いと、あなたはこのブログで「信心を獲得することこそ」大切なのだと語り続けておられると受け取っていますので、是非とも、あなた自身の言葉で、お念仏申されることの、お領解を出言してもらいたいのです。
無理なお願いでしょうか?
ただ私は「あなたの、お念仏の領解を、あなた自身の咀嚼された言葉で」お聞きしたいと申し上げたのです。
たしかに、あなた自身が書いておられるように、あなたの思いや意見など、なんの価値もありません。
(結構、意見・私見もあると思いますが、それはさておき)
親鸞聖人の教えを明らかにすることが、このブログ開設の目的とありますが、教えは、「聖教にこう説かれてる」だけでは本当の意味で明らかにはならないのでは?
教えは衆生の苦悩の人生の上にこそ明らかになるのではありませんか?
でなければ、ただの科学(聞き分ける・知識)に終わり、信心(聞きひらく)とは言えないのではないでしょうか?
その意味合いと、あなたはこのブログで「信心を獲得することこそ」大切なのだと語り続けておられると受け取っていますので、是非とも、あなた自身の言葉で、お念仏申されることの、お領解を出言してもらいたいのです。
無理なお願いでしょうか?
お念仏
初めまして。
私も「みほとけとともに西本願寺の時間」をホームページで読ませていただきました。
確かに野村師は「お念仏一つですよ」といわれ、その書物は言われていませんね。
しかし、管理人さまは大きな誤解をされておられるようです。
野村師は「お念仏をとなえれば浄土往生できますよ」とは言っておられません。
「お念仏一つ」というのは、「お念仏の教え一つ」という意味で言われているとおもいます。
阿弥陀さまのご本願は「念仏往生の願」とよばれているのは、管理人さまもご存知とおもいます。
また祖師聖人は「念仏成仏これ真宗」と、ご和讃に教えておられます。
称名念仏だけがお念仏ではありませんよね。
また「お念仏一つ」を「なんまんだぶつ一つ」と言い換えれば、すっきりするのでは?
私も「みほとけとともに西本願寺の時間」をホームページで読ませていただきました。
確かに野村師は「お念仏一つですよ」といわれ、その書物は言われていませんね。
しかし、管理人さまは大きな誤解をされておられるようです。
野村師は「お念仏をとなえれば浄土往生できますよ」とは言っておられません。
「お念仏一つ」というのは、「お念仏の教え一つ」という意味で言われているとおもいます。
阿弥陀さまのご本願は「念仏往生の願」とよばれているのは、管理人さまもご存知とおもいます。
また祖師聖人は「念仏成仏これ真宗」と、ご和讃に教えておられます。
称名念仏だけがお念仏ではありませんよね。
また「お念仏一つ」を「なんまんだぶつ一つ」と言い換えれば、すっきりするのでは?
お念仏について
廣島様、「称名念仏だけがお念仏ではありません」とお書きです。
「お念仏」といった場合、聞いた人が、いろいろな受け取り方をされます。
多くの人は「念仏さえ称えれば、極楽へ往ける」と了解されるでしょう。
それは大きな誤りですので、蓮如上人も御文章に、
「口にただ称名ばかりを称えたらば、極楽に往生すべきように思えり。
それはおおきにおぼつかなきことなり」
と仰せです。
よって、「お念仏」と言われたならば、当然、その正しい意味を
明らかにされなければならないでしょう。
それがなされていなかったので、問題提起をしたのです。
本日、別項で書きました私の文章では、「ただ念仏のみぞまことにておわします」
歎異抄のお言葉を引用させて頂きました。
この場合の「念仏のみぞまこと」とは、
「弥陀の本願のみぞまこと」の意であります。
「お念仏」といった場合、聞いた人が、いろいろな受け取り方をされます。
多くの人は「念仏さえ称えれば、極楽へ往ける」と了解されるでしょう。
それは大きな誤りですので、蓮如上人も御文章に、
「口にただ称名ばかりを称えたらば、極楽に往生すべきように思えり。
それはおおきにおぼつかなきことなり」
と仰せです。
よって、「お念仏」と言われたならば、当然、その正しい意味を
明らかにされなければならないでしょう。
それがなされていなかったので、問題提起をしたのです。
本日、別項で書きました私の文章では、「ただ念仏のみぞまことにておわします」
歎異抄のお言葉を引用させて頂きました。
この場合の「念仏のみぞまこと」とは、
「弥陀の本願のみぞまこと」の意であります。
無題
このブログが親鸞聖人の教えを明らかにするという趣旨なのは解りますが、人々の普段の生活にたとえてやってみる(表現が拙くてすみませんが、たとえばこのブログにも以前紹介のあった宗門の貴公子氏のような切り口です)なんてのはどうでしょう?素人にも解りやすく説法するのもありだと思います。