世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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よく「これも、方便ですから」と耳にします。しかし、方便の
正しい意味を、知って使っているのだろうかと、不審をおぼえる
こともあります。
当ブログのコメントに、幸福の科学の人が「すべてが真実であり、
すべてが方便です」という無茶苦茶な発言までしていますので、
なおさら、「方便」について、一度書かねば、と思い、以下、
書いてみます。
方便という言葉の原語は「ウパーヤ」といい、目的に「近づく」
という意味です。
またそれから、目的に近づける為の手段も方便と言われます。
仏教では、私達を真実に近づける手段をいいます。
「蓮如上人仰せられ候。方便を悪しということある間敷なり。
方便をもって真実を顕わす廃立の義、よくよく知るべし。
弥陀、釈迦、善知識の善巧方便によりて、真実の信をば
獲ることなる」(蓮如上人御一代記聞書177)
弥陀、釈尊、善知識方の種々の御方便がなければ、私達は真実の
信心を獲て無碍の一道に出ることは絶対に出来ません。
真実に導くには方便は絶対に必要なものですが、真実を知らない
者はそれに近づける方便も知る筈がありませんから、その点注意し
なければなりません。
善財童子と呼ばれた青年が、53人の善知識を歴訪した時、26
番目の婆須蜜(ばすみつ)という婦人を訪ねると彼女は、自らの十
の本願を善財童子に示し、その第九願と十願に、
「自分と接吻したり抱擁した者はそうした関係を手がかりに、
仏縁を結び悟道に入れたい」
と誓っていることが経典に説かれています。
如何にも情熱にとんだ青年を教導しようとする方便でありますが、
こんなことを誰でもが自分の都合によって、これも方便だと真似て
は大変なことになります。
あくまでも真実を体得した方でなければ、方便を駆使して真実を
顕わすことは出来ませんし、それらの方々のどんな方便も悪いと
嫌ってはならないことを、よく了承していなければなりません。
正しい意味を、知って使っているのだろうかと、不審をおぼえる
こともあります。
当ブログのコメントに、幸福の科学の人が「すべてが真実であり、
すべてが方便です」という無茶苦茶な発言までしていますので、
なおさら、「方便」について、一度書かねば、と思い、以下、
書いてみます。
方便という言葉の原語は「ウパーヤ」といい、目的に「近づく」
という意味です。
またそれから、目的に近づける為の手段も方便と言われます。
仏教では、私達を真実に近づける手段をいいます。
「蓮如上人仰せられ候。方便を悪しということある間敷なり。
方便をもって真実を顕わす廃立の義、よくよく知るべし。
弥陀、釈迦、善知識の善巧方便によりて、真実の信をば
獲ることなる」(蓮如上人御一代記聞書177)
弥陀、釈尊、善知識方の種々の御方便がなければ、私達は真実の
信心を獲て無碍の一道に出ることは絶対に出来ません。
真実に導くには方便は絶対に必要なものですが、真実を知らない
者はそれに近づける方便も知る筈がありませんから、その点注意し
なければなりません。
善財童子と呼ばれた青年が、53人の善知識を歴訪した時、26
番目の婆須蜜(ばすみつ)という婦人を訪ねると彼女は、自らの十
の本願を善財童子に示し、その第九願と十願に、
「自分と接吻したり抱擁した者はそうした関係を手がかりに、
仏縁を結び悟道に入れたい」
と誓っていることが経典に説かれています。
如何にも情熱にとんだ青年を教導しようとする方便でありますが、
こんなことを誰でもが自分の都合によって、これも方便だと真似て
は大変なことになります。
あくまでも真実を体得した方でなければ、方便を駆使して真実を
顕わすことは出来ませんし、それらの方々のどんな方便も悪いと
嫌ってはならないことを、よく了承していなければなりません。
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真実を体得]とは
私は、「真実を体得した」とは「真実をよく知っている」ぐらいの意味だと思っていました。そして、真実をまだ良く知らない私には、「誰が方便を駆使して真実を顕しているのか」がよく分かりません。そこで、上記のような質問をしました。
管理人様の言われる「真実を体得した」というのが、「真実をよく知っている」というのでは無いのであれば、どんな意味で仰ったのか、教えていただけないでしょうか。
管理人様の言われる「真実を体得した」というのが、「真実をよく知っている」というのでは無いのであれば、どんな意味で仰ったのか、教えていただけないでしょうか。
再びNONAME様へ
了解しました。
まず「真実を体得した」を「真実信心(他力信心)を獲得した」ことと
いたしますと、これは、第三者が判断することはできません。
真実信心を体得したか否かは、阿弥陀仏と本人にしか、分からぬことです。
次に、「真実を体得する」ということが、その人が「真実を正しく理解
している」の意味とするならば、一切経に説かれた通りに理解している
かどうか、を調べてみなければなりません。
そのためには、その人が教えていることをよく聞き、一方で、それが
一切経に根拠のあることかどうかを検証していくことになります。
なお、これは少々専門的になりますので、ご理解頂けないかも知れ
ませんが、結論だけ申しますと、
「かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の、信心歓喜乃至一念等
の文をもって依憑とす。この外いまだ聞かず」(改邪抄)
と言われますように、正しい信心か否か、真実の信心か否かの
判定基準は、本願成就文である、と浄土真宗では教えられています。
まず「真実を体得した」を「真実信心(他力信心)を獲得した」ことと
いたしますと、これは、第三者が判断することはできません。
真実信心を体得したか否かは、阿弥陀仏と本人にしか、分からぬことです。
次に、「真実を体得する」ということが、その人が「真実を正しく理解
している」の意味とするならば、一切経に説かれた通りに理解している
かどうか、を調べてみなければなりません。
そのためには、その人が教えていることをよく聞き、一方で、それが
一切経に根拠のあることかどうかを検証していくことになります。
なお、これは少々専門的になりますので、ご理解頂けないかも知れ
ませんが、結論だけ申しますと、
「かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の、信心歓喜乃至一念等
の文をもって依憑とす。この外いまだ聞かず」(改邪抄)
と言われますように、正しい信心か否か、真実の信心か否かの
判定基準は、本願成就文である、と浄土真宗では教えられています。
ありがとうございまいした
>「真実を体得した」を「真実信心(他力信心)を獲得した」ことといたしますと、これは、第三者が判断することはできません。真実信心を体得したか否かは、阿弥陀仏と本人にしか、分からぬことです。
了解しました。
>「真実を体得する」ということが、その人が「真実を正しく理解している」の意味とするならば、一切経に説かれた通りに理解しているかどうか、を調べてみなければなりません。そのためには、その人が教えていることをよく聞き、一方で、それが一切経に根拠のあることかどうかを検証していくことになります。
うーん。その通りですが、一切経に根拠のあることかどうかを検証するのは大変ですね。自分が一切経を正しく理解しているのか、自信がありませんので。
返信ありがとうございました。
了解しました。
>「真実を体得する」ということが、その人が「真実を正しく理解している」の意味とするならば、一切経に説かれた通りに理解しているかどうか、を調べてみなければなりません。そのためには、その人が教えていることをよく聞き、一方で、それが一切経に根拠のあることかどうかを検証していくことになります。
うーん。その通りですが、一切経に根拠のあることかどうかを検証するのは大変ですね。自分が一切経を正しく理解しているのか、自信がありませんので。
返信ありがとうございました。