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世界の光・親鸞聖人の教えを世界に! 夢は大きく、現状には厳しい目を!
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神戸で、高校生が、新型インフルエンザに感染していることが
確認されました。さらに、同校の数人にも感染の疑いがあり、
同校とバレーの交流試合をした学校でも、発熱している生徒が
いる、との報道もあります。
 いよいよ、人から人への感染が、国内でも発生している可能
性があり、政府も対応を一段階上げて、対応しています。

 神戸、大阪といえば、ご本山にも近く、真宗の方も多くおら
れますので、いよいよ、他人事ではなくなった感があります。
 「不要不急の外出は避けるように」とは言われますが、では、
葬儀、法事、種々の法要などは、どうするか。現在のところは、
「集会の禁止」とは言われていませんので、判断が微妙なとこ
ろでしょう。

 いずれにしても、仏法が大事だから、体が大事、健康が大事
です。「肉体は、法の入れもの」とも言われます。今できうる
最善の対策を講じ、これ以上の拡大を防ぎましょう。
 マスクの着用、手洗いやうがいの励行、いざという時の為に
食料を備蓄するなど、考えておきたいと思います。
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どうすれば自力が捨たりますか?
自力がすたるには、どうすればいいのでしょうか?
自力がすたるのは聴聞の「聞」の時ですよね?
それまでは聴聞の「聴」ということになりますが、例えば「聴」を1万回すれば「聞」になる、というようなものでない事はよく心得ています。
だからこそ、分からなくなります。
「聴」を重ねたからと言ってそれで「聞」にはならないと分かってはいても、聞法せずにいられない気持ちになります。しかし、聞法しても「こうやってるのも自力ではないか」、御聖教を拝読しても「これも自力だなぁ」、そして「こうやって"自力自力"と考えてる事自体も自力じゃないか」、「いったいどうすれば信心決定できるんだろう?」、「この"どうすれば"も自力だ…」と、どこまで行ってもこの無限ループを抜け出せません。いったいどうすれば自力が捨たり、他力に帰すのでしょうか?宜しくお願いします。
マクドナルダ 2009/05/16(Sat)20:52:16 編集
他力に帰するには
マクドナルダ様
 コメント有り難うございます。
 自力がすたって他力に帰するのは、聞即信の一念です。
 すなわち、阿弥陀如来の呼び声が、私に届いた一念で、自力がすたって、
他力=弥陀の本願力に救い摂られるのです。

 あなたのお尋ねは、その一念まで、どのように求めていけばよいのか、
ということでしょう。
 一念で、絶対の幸福に救う、というお約束は、弥陀の十八願です。
 その十八願の救いまで導くために、阿弥陀如来が建立されたのが、
十九願、二十願の、二つの願です。
 真実へ導くための方便の願、と、これを言われます。

 親鸞聖人も、有名な「三願転入」のご文に述べられているように、
三願転入して救われたと仰せです。

 どうすれば自力がすたり、他力に帰すのでしょうか?というお尋ねでしたね。
 それには、三願転入しか道はありません。

 詳しくは別の欄に譲りますが、十九願とは
「一生懸命、善をやりなさい。助けましょう」
という願です。
 因果の道理は、宇宙の真理。善因善果、悪因悪果、自因自果、の真理を
知らされれば必ず、悪をつつしみ、善に向かうようになります。
 弥陀の救いを求め、善に向かうままが、弥陀に誘引されているのです。
 二十願とは、「あらゆる善の本である念仏を称えよ。必ず助けましょう」
というお約束です。善に向かえば向かうほど、悪しか造れぬ自己を
知らされ、弥陀の完成せられた、万善万行のかたまりである名号に
心が向くようになります。そして念仏を称えずにおれなくなるのです。
 この十九願、二十願に導かれて、やがて十八願、真実の世界に出る
ことができたと、親鸞聖人は仰せです。
 あなたが他力に帰するには、この道しかありません。
 さあ、光に向かって進ませていただきましょう。
管理人 2009/05/16(Sat)23:40:33 編集
無題
管理人様
お返事有難うございました。

『善に向かえば向かうほど、悪しか造れぬ自己を
知らされ、弥陀の完成せられた、万善万行のかたまりである名号に心が向くようになります。そして念仏を称えずにおれなくなるのです。』

とのことですが、今の私は、その名号に心が向いている状態です。こんな自分は、弥陀の名号でしか救われないと思うのです。念仏も、称えずにおれない気持ちが出てきます。

ということは、私は今、19願を経て、20願まで誘引されているという事でしょうか?あとちょっとで聞即信の状態なのでしょうか?

宜しくお願いいたします。
マクドナルダ 2009/05/17(Sun)00:26:45 編集
信仰が進めば念仏を称えずにおれなくなる
マクドナルダ様へ
 人の信仰が、どの程度進んでいるのか、ということは、
人間に分かるものではありません。
 もちろん、当の本人にも、分かりません。
 今回のことで言うならば、信仰が進めば念仏を称えずに
おれなくなる、とは申し上げられますが、だからといって、
念仏を称えているからといって、信仰が進んでいる、とは
申せません。ご納得いただけないかも知れませんが、以上を
お答えとさせていただきます。
管理人 2009/05/17(Sun)22:48:45 編集
三願転入について質問です
管理人様

1.諸善を真剣に実行する
2.善の出来ない自分が知らされる
3.念仏をを真剣に称える
4.念仏の出来ない自分が知らされる
5.自力無効とハッキリ知らされる
6.と同時に阿弥陀仏に救われる

というのが三願転入なのでしょうか。
NONAME 2009/05/20(Wed)21:54:33 編集
三願転入
◆三願転入

「然るに願海につきて、真あり仮あり。
 ──乃至──真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」
        (教行信証真仏土巻)

 真実を知らない者は、方便も知らない。
 真実の十八願だけでよいのなら、法蔵菩薩は十九・二十の方便願を
建立される筈がない。
 十方衆生は各自の宗教を最高無上と信じている。
「あんな者となんで夫婦になったのか。気がしれん」と笑われていても、
本人同士はアバタもエクボに見えるのだから仕方がない。
 善悪を超えた仏智不思議の世界に出させるのが仏の正意だが、
自力の執着は一朝一夕に浄尽できぬ。
 そこで励んだ徳に応じて果報が得られるぞと修善を勧めて、
十方衆生を統合し、二十願に導こうとするのが十九の願である。
 大人になっても積木遊びでは親泣かせだから、十九・二十願で
根機を調え、十八願真実へ転入させられる。
 釈尊も三部経にこれを開顕し、聖人は自ら三願転入して
出世の本懐を遂げられている。
                   以上。
一学僧 2009/05/21(Thu)17:19:18 編集
無題
一学僧さん、それ、答えになってないですよ。

1.諸善を真剣に実行する
2.善の出来ない自分が知らされる
3.念仏をを真剣に称える
4.念仏の出来ない自分が知らされる
5.自力無効とハッキリ知らされる
6.と同時に阿弥陀仏に救われる

というのが三願転入なのか、
違うのであればNONAMEさんの理解のどこが間違っているのか、そこを示さないと、法を説いているとはいえませんよ。

しっかり相手の知りたいことを理解して答えてあげなさいよNONAMEさんも管理人さんも。
はんぺんガール 2009/05/23(Sat)21:51:33 編集
はんぺんガール様へ
 一学僧さんの出された文章に、三願転入は
尽くされていると思います。
 それが答だ、ということが分かられないのであれば、もう一度、
真宗のイロハから、学ばれたらよいと愚考します。
 熟読された上で、なお分からないところがあれば、このコメント上で
尋ねられたらよいと思います。

なお、
「1.諸善を真剣に実行する
 2.善の出来ない自分が知らされる
 3.念仏をを真剣に称える
 4.念仏の出来ない自分が知らされる
 5.自力無効とハッキリ知らされる
 6.と同時に阿弥陀仏に救われる 」

 こんなものが三願転入でないことは、明らかです。答えるまでもありません。
 なぜなら、三つの願ということの何の説明もないし、その三願の
関係も示されていません。
 転入するとはどういうことかも、分かりませんし、その教えと
私たちの関係も、何ら示されていません。
 どっかで聞いた話を、つなげて箇条書きにしただけで、何を
意味しているのか、不明です。

 もう一度、一学僧さんのを、ご熟読ください。そこに、

・三願とは、阿弥陀仏の十八願、十九願、二十願の三つの願

・その関係は、十八願の真実に入れるための方便願が、十九願と二十願

・転入とは、善悪を超えた仏智不思議の世界に出させ、出世の本懐を
一念で遂げさせること

・それは、親鸞聖人の通られた道であり、十方衆生(つまり私たちも)の
通るべき道でもあること

などの、たいせつなことは、すべて尽くされています。
管理人 2009/05/24(Sun)01:35:36 編集
無題
一学僧様 管理人様

ご教示、ありがとうございました。心得違いでした。

三願転入して救われる、とのことですが、救われるはまず何をしたらよいのでしょうか。阿弥陀仏の救いを求めて、善を実行すればよいのでしょうか。
NONAME 2009/05/24(Sun)12:43:57 編集
NONAMEさんへ
返信有り難うございます。
 弥陀に救われるのは、どうすればよいか、とのお尋ねですね。
 これについて、阿弥陀仏の御心を正しく伝えて下されるのは
同じ仏であるお釈迦様だけですから、お釈迦様からお聞きしましょう。
 十八願成就文に、
「諸有の衆生、其の名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん」
と教えておられます。
「其の名号を聞いて救われるのだ」と仰せです。
 名号とは、南無阿弥陀仏の名号のことです。十七願成就文に
あるように、大宇宙の諸仏が、みなそろって褒めたたえておられる、
無上深甚の功徳のおさまった、名号のことを「其の名号」と言われ
ています。
 それを「聞く」とは、親鸞聖人が教行信証に、
「聞というは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。
これを聞というなり」
と教えておられますように、阿弥陀仏が、なぜ本願を建てられたか、
そのもとから末まで聞く、そして、それに疑心あることなし、と
なったのを、「聞」というのだ、と仰せです。
 仏願とは、阿弥陀仏の本願であり、これ一つ教えられたのが
釈迦一代の教え、仏教ですので、
「仏法は聴聞に極まる」といわれるのです。

 よって、正しく仏法を教えて下される善知識にお会いして、
しっかりと聴聞させていただきましょう。
「極まる」ですから、それ以外に、救われる道はありません。
 以上、よろしくお願いします。
管理人 2009/05/24(Sun)19:10:18 編集
無題
管理人様へ
根拠を出してのご教示、ありがとうございます。

今回、「救われるにはどうすればよいか」との問いに「其の名号を聞いて救われるのだ」とお答えくださいました。

一方、マクドナルダさんとのやりとりでは三願転入して救われる、と仰いました。

其の名号を聞くことも、三願転入することも、同じことなのでしょうか?
NONAME 2009/05/24(Sun)22:53:24 編集
NONAME様へ
三願とは、十八願、十九願、二十願の、三つの阿弥陀仏の願です。
「其の名号を聞く者を救う」は、その中の十八願に誓われていることです。
その十八願の救いまで、十方衆生を導くために誓われたのが、
十九願と二十願の、二つの願です。

よって、十九願、二十願で十方衆生を導いて、十八願の救いに
あわせるぞ、というのが、阿弥陀仏の壮大なご計画なのです。
これを、三願転入というのです。

そういう関係です。
管理人 2009/05/25(Mon)06:44:56 編集
無題
管理人様
返信ありがとうございます。しかし、未だにしっくりしない部分があります。

2009/05/16(Sat)23:40:33のコメントで、管理人様は
「弥陀の救いを求め、善に向かうままが、弥陀に誘引されているのです」
と仰いました。これを聞いて、阿弥陀仏に救われるには、まず善をする必要があるのかな?と思いました。


一方、2009/05/24(Sun)19:10:18のコメントでは、管理人様は
「仏法は聴聞に極まる」と教えてくださいました。これを聞くと、聴聞をしていれば、善はしてもしなくても、阿弥陀仏の救いには関係ないように思います。

阿弥陀仏の救いを求める上で、善をすることは、必要なことなのでしょうか。
NONAME 2009/05/25(Mon)23:47:52 編集
「NONAME」様へ
そのことを、先刻のコメントでも書きました。
繰り返しになりますが、書きましょう。

「聞く一つで救う」という十八願の救いまで、私たちを導くために
阿弥陀仏が建てられたのが、十九願と二十願の、方便の二願です。
 その十九願は「善を励みなさい。必ず助ける」との誓いです。
 そこで、弥陀の救いを求めて、一生懸命、善に励むままが、
十八願の救いまで誘引されているすがたなのです。
 親鸞聖人は、仰せです。
「諸善万行ことごとく
   至心発願するゆえに
 往生浄土の方便の
   善とならぬはなかりけり」
 弥陀の救いをもとめてやるすべての善は、往生浄土の方便の善と
なるのだと、教えておられます。
(ただしこれは決して、やった善が往生浄土の役に立つ、という
ことではありません。聞き誤ってはならないところです)

 ところが、真宗の道俗には、「方便なんて必要ない」と言って、
方便を軽んじて、少しも善をやろうとしない人がほとんどです。
 しかし、「従仮入真」仮(方便)よりしか真(真実)には入れず、
と言われるように、方便がなければ絶対に真実には入れません。
 もし真実の十八願だけでよいのなら、阿弥陀如来は、方便の二願を
建てられるはずがありません。
 しかも、十九願も、二十願も、十方衆生を相手の願ですから、
すべての人は、この二願を通らなければ、絶対に十八願の世界へは
入れないのです。
その関係を、図示しておきます。

 【真実】       【方便】
<18願> │ ←<20願>←<19願>
往 無 信 │     植      修
生 碍 楽 │聞   諸      諸
一 の    │即   徳      功
定 一    │信   本      徳
   道    ├───────────────
        │の    の      の
        │一    願      願
        │念
        │
管理人 2009/05/26(Tue)09:38:44 編集
重ねて質問します
管理人様へ

返信ありがとうございます。
仰っている言葉の意味が、今ひとつ分かりませんので、その意味を質問します。


>弥陀の救いをもとめてやるすべての善は、往生浄土の方便の善となるのだと、教えておられます。
「往生浄土の方便の善」とは何でしょうか?
「往生浄土の役に立つ」という意味ではないようですが。


>しかも、十九願も、二十願も、十方衆生を相手の願ですから、すべての人は、この二願を通らなければ、絶対に十八願の世界へは
入れないのです。
「二願を通らなければ」というのは、どういう意味でしょうか?
「十九願に誓われている善や、二十願に誓われている称名念仏をやらなければ」ということでしょうか?


また、私の質問
「阿弥陀仏の救いを求める上で、善をすることは、必要なことなのでしょうか。」
の答えは何だったのでしょうか?


私の理解力がないために、何度も質問して、お手を煩わせていますが、ご容赦下されれば幸いです。
NONAME 2009/05/26(Tue)21:24:48 編集
NONAME様へ
お答えします。
>「往生浄土の方便の善」とは何でしょうか?
>「往生浄土の役に立つ」という意味ではないようですが。

→はい。役に立つという意味ではありません。
 善をやらなければ、信仰は進まない、といことです。
 上に書きました図でいう、横の線を、右から左へと進むことは
できませんよ、ということです。

>「二願を通らなければ」というのは、どういう意味でしょうか?
>「十九願に誓われている善や、二十願に誓われている称名念仏を
>やらなければ」ということでしょうか?

→いいえ。三願転入とは、救われるまでの心の道程ですので、
実際に念仏を称えるか、どうか、ということではありません。
 そういう心のみちを、通らなければ、十八願へは転入できない
ということです。

>また、私の質問
>「阿弥陀仏の救いを求める上で、善をすることは、必要なこと
>なのでしょうか。」
>の答えは何だったのでしょうか?

→先にも述べましたように、善をやらなければ、信仰は進みません、
ということです。あの横の線を、すすめませんよ、ということです。
 ですから、釈尊も、親鸞聖人も、善をすすめておられるのです。
 そもそも、因果の道理からいっても、善を励まねば善果はきませんし、
悪を造れば、悪果は避けられません。
 「凡夫に善などできるか」と、悪のやりたい放題やっているから、
不幸や災難があとをたたないのです。
 浄土真宗の人の中で、ここを聞き誤っている人が多いのが、まことに
残念なことです。これでは、真宗が衰退するのも当然です。
 善因善果 悪因悪果 自因自果は、宇宙の真理です。
 そしてその結論は、「廃悪修善」悪をやめ、善をせよ、との教えです。
 弥陀が十九願で誓われ、釈尊も一切経ですすめられ、親鸞聖人も
善をおすすめになっておられるのに、ああだこうだと理屈をこねて
少しも善をやらないから、信仰が進まないのです。
 もちろん、図のタテの線、一念を突破して、無碍の一道に出るには、
弥陀の本願力以外にないことは、何度も述べている通りです。
 その光明輝く世界に向かって、進ませていただきましょう。
管理人 2009/05/27(Wed)09:21:17 編集
無題
管理人様へ
お答え頂き、ありがとうございました。

「弥陀の救いをもとめてやるすべての善が往生浄土の方便の善になる」とは、
「善をやらなければ信仰は進まない」ということだと教えて頂きました。
信仰が進まねば救われることはないでしょうから、善をやらなければ、救われないのですね。


「三願転入とは、救われるまでの心の道程である」
「そういう心のみちを、通らなければ、十八願へは転入できない」
との事ですが、その「心のみちを通る」という意味が分かりません。
善をやったり、念仏を称えるだけではだめで、何か心で思うことが必要なのでしょうか。


「阿弥陀仏の救いを求める上で、善をすることは、必要なことなのでしょうか。」との問いには
「先にも述べましたように、善をやらなければ、信仰は進みません、ということです。あの横の線を、すすめませんよ、ということです。」と教えて頂きました。
やはり、善をやらなければ、救われないのですね。
NONAME 2009/05/27(Wed)14:06:33 編集
NONAME様へ
まず一つ目のお尋ねの点です。
「善をやらねば信仰は進まない」ということは、
「善をやらねば救われない」ということではありません。
 この二つは全く違います。その違いを説明するには、膨大な時間と
教学の研鑽が必要です。

二つ目の「心の道程」についてですが、貴方自身の信仰にも関わって
くることですので、これもやはり、二言三言で説明できるようなもの
ではありません。

お尋ねの二つの問題は、ですからいずれも、コメントでのやりとりで
済むようなレベルではありません。ご了承ください。

そこを知るには、親鸞聖人の正しい教えを説かれる先生に会い、
後生の一大事を心にかけて、真剣に聞き求め、分からないところは、
よき法友と信心の沙汰をして、聞法精進されることをおすすめします。
管理人 2009/05/27(Wed)16:13:50 編集
ありがとうございました
管理人様へ
お答え頂き、ありがとうございました。

二言三言では説きつくせないところを質問してしまったようです。
親鸞聖人の教えを正しく説かれる方(管理人様にはむりなようですが)を探して、その方に尋ねることにします。

ありがとうございました。
NONAME 2009/05/27(Wed)22:26:19 編集
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