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世界の光・親鸞聖人の教えを世界に! 夢は大きく、現状には厳しい目を!
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 今回のみほとけとともにの担当は、大阪府正満寺(しょうまんじ)住職で、本願寺派布教使の
安方哲爾(やすかた てつじ)氏でした。
 
「浄土真宗のご法義は、命終わってお浄土に参らせていただく宗教です。
 しかし、これが分かるかというと、分かりません。
 なぜかというと、お浄土へ参るということは生きている間に経験しま
 せんから」

という切り出しで、その後は、見たこともないところへ行くのは、必ずしも不安ではない、と、
母親に手を引かれて長崎へ行く4歳の息子さんの例えを出していました。
 その強引な例えについても、言いたいことはマウンテンですが、何よりも真っ先に指摘して
おかねばならないのは、冒頭の上記の箇所です。

「命終わって、お浄土に参らせていただくことが、分からない」

という点です。
 弥陀の本願力に救い摂られ、この世で正定聚不退転に入った人が、「死んで浄土へ参らせて
いただくことが分からない」と言われるのか。
 獲信しても、浄土往生については分からないままなのか。
 真実信心を獲得しても、往生は不定で、ハッキリしないとでも言われるのか。
 では、教行信証の
「念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
と断言されたのは、間違いか。
「真証の証に近づく」
と確言されたのも、誤りか。
 ご臨末に、
「我が歳きわまりて、安養の浄土に還帰す」
との仰せも、否定されるのか。
 蓮如上人も、
「往生一定、おん助け治定」
と、信心決定して、報土往生がハッキリしたぞと繰り返しおっしゃっているが、それもすべて
間違いだと言われるのか。

 冗談にも、ほどがある。いや冗談ではない、というのなら、

「真実信心を獲得しても、お浄土へ往けるかどうか分からない。往生は不定である」

と仰せられた、親鸞聖人のお言葉と根拠を、明示されたい。
 平生に往生の業事成弁する、浄土真宗の教えの、根本的破壊ではないか、と思います。
みなさん、いかがですか。

 あるいは、宗門の貴公子さま、またいつもコメントをくださる、布教使のみなさん、
何か内幕や、裏話でもあれば、教えてください。

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分かるについて
これは、「お浄土参りすることに間違いない」ということが分からないという意味ではありません。

お浄土がどういうところか分かっていくのではないということについて、「分からない」と言ってあるのです。

そして、その後のたとえを通して、浄土真宗の「間違いない」という使い方は、お浄土に対して使うのではなく、願力名号に使うのであると示しているのです。

ですので、初めに「浄土真宗のご法義は、命終わってお浄土に参らせていただく宗教です。」と、ちゃんと言っておられます。

しかし、お浄土がどんなところかは分からないと言っているのです。
しんちゃん 2008/09/13(Sat)13:30:43 編集
「お浄土参りする」ことはいつハッキリするのですか
「浄土真宗のご法義は、命終わってお浄土に参らせていただく宗教です。
 しかし、これが分かるかというと、分かりません。
 なぜかというと、お浄土へ参るということは生きている間に経験しま
 せんから」

「お浄土へ参るということ」は、生きている間に経験しないから、
というか、生きている間は経験できないから、ハッキリしない、
という文脈でしょう。

ここで問題は、もちろん往生浄土は死後ですが、この世、生きている平生ただ今、
「いつ死んでも浄土往生間違いなし」とハッキリするのか、どうか、です。

「この世では経験しないから、ハッキリしない」と安方氏はおっしゃる。
「いや、お浄土が分からないだけだ」と「しんちゃん」様は言われる。
ならば、「お浄土はどんなところか分からないが、往けることだけはハッキリする」
のでしょうか。
それとも、それも、ハッキリしないのでしょうか。

ヒント:覚如上人が、ズバリこの点で、お答えを出してくださていますよ。
管理人です 2008/09/13(Sat)18:54:15 編集
無題
「お浄土を理解して救われていく宗教ではありません」

「仏様におまかせをして、お浄土に参らせていただく宗教です」

このように安方師はおっしゃっています。

平成業成の義を明らかになさっています。往生間違いないとなるのは、信一念です。

しかし、ハッキリするという言い方は、意識して使いません。なぜなら、未信の人は、自分の心にハッキリするものをさがそうとするからです。

だからといって、無念無想ではありません。

後生の不安が晴れて、安心するのですから。
しんちゃん 2008/09/14(Sun)07:50:07 編集
書けばいいというものではない
何でも書けばよい、というものではありません。

「「お浄土を理解して救われていく宗教ではありません」

 「仏様におまかせをして、お浄土に参らせていただく宗教です」

 このように安方師はおっしゃっています。

 平成業成の義を明らかになさっています。」

あのですね、この2文のどこが「平生業成の義」なのですか。
そもそも、「平生業成」とはいかなることかお分かりなのでしょうか。

その他のことも、ただ知っていることを書けばよいというものではありません。
管理人です 2008/09/16(Tue)00:16:09 編集
無題
そう言い切ってしまわれずに、わからないところがあれば、このあたりがわからないとお尋ね下されば、わかるようにお答えします。

まず、「平生業成」は、蓮如上人が

「平生業成といふは いまのことはりをきゝひらきて 往生治定とおもひさたむるくらゐを 一念発起住正定聚とも 平生業成とも 即得往生住不退転ともいふなり」

とおっしゃっています。

親鸞聖人は、このこころを

「真実信心の行人は 摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す このゆへに臨終まつことなし 来迎たのむことなし 信心のさたまるとき往生またさたまるなり 来迎の儀則をまたす」

とおっしゃっています。

信心の定まるとき往生定まるのが、平生業成の義です。

平生において、「お浄土に生まれることに間違いない」と、つゆちりほどの疑いもないのです。

しかし、それは行ったことのないお浄土が、どんなところか分かるということではありません。

では、なぜ「お浄土参り間違いなし」と疑いないのか。

その間違いないとは、お浄土に対して使うのではなく、今ここに「必ず救う」と阿弥陀さまがはたらいて下さっているから、間違いないのです。

これが親鸞聖人の間違いないの使い方です。

そのことを顕さんがために、子どもさんのおたとえを出されているのです。

子どもさんは、長崎へ行くことにつゆちりほどの疑いも無い。長崎がどんなところか、どうやっていくのかもしらない。しかし、少しの不安もない。なぜなら、親が一緒だからです。

私は、自分の行く末が全くわからない。後生暗い心をもっている。そして地獄へ堕ちんとしている。そんな私のために、阿弥陀さまは、五劫兆載永劫のご苦労を下さり、「必ず救う」とただ今ここにご一緒下さっています。


われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀
 つれてゆくぞの 親のよびごえ
しんちゃん 2008/09/16(Tue)11:00:35 編集
質問はここです
わからないところは、ズバリ尋ねたほうがよいそうなので、直裁に記します。

今回のお答の最後に、

「私は、自分の行く末が全くわからない。後生暗い心をもっている。そして地獄へ堕ちんとしている。そんな私のために、阿弥陀さまは、五劫兆載永劫のご苦労を下さり、「必ず救う」とただ今ここにご一緒下さっています。」

ここで疑問が生じます。

「阿弥陀仏が今ここにご一緒下さっている」
「今ここに「必ず救う」と阿弥陀さまがはたらいて下さっている」
のに、それでも

「自分の行く末が全くわからない」し、
「後生暗い心を持っている」のですか。

これまで書いてきた種々の質問は、ここに収束します。
いかがでしょうか?
管理人です 2008/09/16(Tue)12:27:08 編集
無題
ご質問有難うございます。

行く末がわからない、後生暗い心は信前のすがたです。

その私のところに来て下さった阿弥陀さまの「必ず救う」の仰せを聞信する一念に、後生暗い心は晴れます。

ただ今ここにご一緒下さっているから、間違いないのです。

そのことを安方師も、おっしゃっています。
しんちゃん 2008/09/16(Tue)15:32:31 編集
今ひとつなので
コメント有難うございました。

「行く末がわからない、後生暗い心は信前のすがたです。

その私のところに来て下さった阿弥陀さまの「必ず救う」の仰せを聞信する一念に、後生暗い心は晴れます。

ただ今ここにご一緒下さっているから、間違いないのです。」

とのお答えでしたが、今ひとつ不明確なので、お尋ねします。

「信前の私のところに、阿弥陀さまが来てくださった」とのこと。だとすれば、
「聞信の一念」より前、即ち信前にも、 阿弥陀さまは、ご一緒なのですね。
 ご一緒なのに、往生はできないのですか。
 なぜなら、信前の人が死ねば、「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり」と、蓮如上人も仰せです。
 だとすると、「ご一緒くださっているから、往生は間違いない」との言葉と
矛盾になりませんか?
管理人です 2008/09/16(Tue)18:09:21 編集
無題
貴重な質問有難うございます。

そのようにご質問下さると、自分の答えている内容不足がよくわかります。有難うございます。

非常に大事なところでありますね。

まさに仰せの通り、蓮如上人は、

、「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり」

とおっしゃっていますので、信心を獲得しなければ助からないのです。

ですから、阿弥陀さまがご一緒であっても、その阿弥陀さまを知らずに背を向けて、流転してきたのです。いくらご一緒であるといっても、それを知らなければ、一緒でないのと同じことです。

大事なことは、迷いの私のためにご一緒下さっている阿弥陀さまのおこころを信受することです。つまり、信心獲得が大事です。

また不足があればお尋ねください。
しんちゃん 2008/09/17(Wed)07:53:13 編集
重ねてお尋ねです
不足があればまたお尋ねください、とのことなので、重ねてお尋ねします。

「いくらご一緒であるといっても、それを知らなければ、一緒でないのと同じことです。」
とのことですが、ならば、「ご一緒であることを知る」ことが、最も重要になります。なぜなら、
「ご一緒くださっていても、それを知らなければ往生できない」のですから。

ところが、一方で「しんちゃん」さんは、こうも書いておられます。

「なぜ「お浄土参り間違いなし」と疑いないのか。
その間違いないとは、お浄土に対して使うのではなく、今ここに「必ず救う」と阿弥陀さまがはたらいて下さっているから、間違いないのです。」

「ただ今ここにご一緒下さっているから、間違いないのです。」

ご一緒なのを「知る」か「知らない」かには一切触れず、
「はたらいて下さっているから」「ご一緒下さっているから」間違いない、と言われています。

 聞信の一念より前、即ち信前にも「ご一緒」だし「はたらいて下さっている」のでしたら、
その時点で、もう「往生間違いない」のではないですか。

 えーと、そうですね。回りくどいので、もうハッキリ書いてしまいましょう。

 あなたは、名号が成就したことと、名号を信受したこととを、間違えておられます。
 十劫の昔、無上宝珠の名号は成就していても、私が受け取らねば、「無明長夜の闇を破す」
はたらきは表われません。
 教学的にいえば、法体成就の機法一体と、
信念冥合の機法一体とを間違えています。
 この二つは、違いますので、お間違えのないように。

 また、
 十方衆生が遍照光明に照育されていることと、摂取光明に常護されていることとを、
混同しておられます。
 いくら遍照光明に育てられていても、いまだ破闇光明によって、疑情を破っていただいて
いなければ、往生はできません。
 どちらも「光明」ではありますが、別ですので、お間違えのないように。
管理人です 2008/09/17(Wed)14:31:49 編集
無題
重ねて質問有難うございます。そのようにおっしゃっていただくと有難いです。

管理人さんが、

「十劫の昔、無上宝珠の名号は成就していても、私が受け取らねば、「無明長夜の闇を破す」
はたらきは表われません。」

とおっしゃっていますが、全くその通りです。

名号信受の上から、

「ただ今ここにご一緒下さっているから、間違いないのです。」

と申し上げているのです。

「知っている」と、わざわざ言わなくても、「ただ今ここにご一緒下さっているから、間違いないのです。」 と言っているままが、知っているすがたではありませんか。

知らないもの上には、「ただ今ここにご一緒下さっているから、間違いないのです。」という心は成り立ちません。

そのために、安方師は親子のたとえを出されています。子どもさんは、親が一緒であると知っているから、不安がないのです。

しかし、子どもは「お母さんが一緒」とは言っても、「お母さんが一緒だと知っている」とは言いません。「お母さんが一緒」と言っているままが、つゆちりほどの疑いもないすがたです。


一切の生きるとし生けるものに注がれている照育の光明と、信心のものを護る摂取の光明は、当然違います。

照育の光明の上から「あらゆる人にご一緒です」と申し上げ、摂取の光明の上から「ご一緒だから間違いない」と申し上げているのです。

「間違いない」ということは、他人に向かっては言えません。自分で知ることです。


追伸:数日インターネットが出来ない環境に身を置きますので、お尋ねについては後日いたします。
しんちゃん 2008/09/18(Thu)08:22:12 編集
混同の危険
「しんちゃん」返信有難うございます。私のような者の話にお付き合いくださり、
まことに感謝いたしております。

さて、

「一切の生きるとし生けるものに注がれている照育の光明と、
 信心のものを護る摂取の光明は、当然違います。

 照育の光明の上から
 「あらゆる人にご一緒です」と申し上げ、
 摂取の光明の上から
 「ご一緒だから間違いない」と申し上げているのです。」

とのこと。

前段はまことにその通りです。
ところが、問題は後段です。

「  」内だけを、続けて聞けば、どうなりますか。
「あらゆる人にご一緒です。
 ご一緒だから(浄土往生は)間違いないのです」
ということになります。

これでは、「あるゆる人が、往生間違いない」ことになります。
 大変な誤りになってしまいますね。

 ならばこそ、調熟(遍照)光明と、摂取光明と、二つの光明の違いを
明確にせねばなりません。ということは、信一念を明らかにせねばならない
ということになります。
「たのむ一念のところ肝要なり」(蓮如上人)
 信一念の水際を鮮明にせねば、親鸞聖人の教えは、破壊されてしまいます。
 誰でも死ねば極楽往生できるのならば、教えを説くことも、聞くことも
不要なことになってしまうからです。

 ところが、通常、二つの光明の違いなど、話がなされないままで、
ただひとくくりに
「弥陀の光明」
と言われていませんか。話がなされていませんか。
 そこに大きな、混同の危険とでもいうべき落とし穴があるのです。

 今回は、上記の点を、指摘したかったのです。
 一応、そこまで話が進みましたので、この件はこれまでと致します。
管理人です 2008/09/18(Thu)10:20:50 編集
無題
本当に真摯にご相談して下さり、誠に有難うございます。管理人さんには、感謝申し上げます。

仰るように、誰でも救われているという話では、当流の御法義ではありません。

他力信心のいわれを知らぬはいたづらごとであります。

ただ、この度の安方師の御法話は、無疑の心相を顕かにせんがための御法話でありました。

そのことを申し上げたかったのです。


今まで有難うございました。
しんちゃん 2008/09/21(Sun)07:45:39 編集
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