世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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今週の「みほとけとともに ~西本願寺の時間~」は、富山県の山名一徳氏
でした。(詳細は、こちらを→ 「みほとけとともに」
せっかく親鸞聖人のお言葉を出してのお話でしたが、最後の最後、この一文。
「南無阿弥陀仏のこころをしっかりいただきましょう」
しっかりいただきましょう、と呼びかけられているということは、まだいただいて
いない人に呼びかけていることはあきらかです。
しかも、ほとんどがいただいていて、いただいていない人が少数ならば、わざわざ
ラジオ放送でまで呼びかけることはないので、多くの人が「まだ、いただいていない」
ことも分かります。
しかし、ここに矛盾が露呈します。
これまでのラジオ放送で、くりかえし、「阿弥陀さまのみこころは、南無阿弥陀仏
となって、今、私たちに届いているのです」と言ってきました。
一方で、南無阿弥陀仏は届いた、と言い、
他方では、南無阿弥陀仏はまだ届いていない、とも言う。
どっち?
そして、今回の話でも、最大のポイントが抜け落ちています。
「南無阿弥陀仏をいただきましょう、と言うけれど、どうすればいただけるの?」
いただきましょう、と呼びかけるからには、山名さん、「どうすれば」の問いに
答える責任がありますよ。
でした。(詳細は、こちらを→ 「みほとけとともに」
せっかく親鸞聖人のお言葉を出してのお話でしたが、最後の最後、この一文。
「南無阿弥陀仏のこころをしっかりいただきましょう」
しっかりいただきましょう、と呼びかけられているということは、まだいただいて
いない人に呼びかけていることはあきらかです。
しかも、ほとんどがいただいていて、いただいていない人が少数ならば、わざわざ
ラジオ放送でまで呼びかけることはないので、多くの人が「まだ、いただいていない」
ことも分かります。
しかし、ここに矛盾が露呈します。
これまでのラジオ放送で、くりかえし、「阿弥陀さまのみこころは、南無阿弥陀仏
となって、今、私たちに届いているのです」と言ってきました。
一方で、南無阿弥陀仏は届いた、と言い、
他方では、南無阿弥陀仏はまだ届いていない、とも言う。
どっち?
そして、今回の話でも、最大のポイントが抜け落ちています。
「南無阿弥陀仏をいただきましょう、と言うけれど、どうすればいただけるの?」
いただきましょう、と呼びかけるからには、山名さん、「どうすれば」の問いに
答える責任がありますよ。
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この記事にコメントする
「届いても頂いていない人」
「しんちゃん」さま、コメント有難うございます。
「阿弥陀仏の御心が、南無阿弥陀仏となって今、私たちに届いている」
ということと、
「阿弥陀仏の御心を、頂いている」
ということとは違う、とのこと。
「届いていても、頂いていない人が未信の人です」
ともお書きでした。
ですから、本文でお尋ねしているのです。
「では、頂くには、どうするのですか」と。
「しんちゃん」さん、お答えくださいませんか。
ついでに、「届いて頂いた人」と「届いたけど頂いていない人」とは、
どこがどう違うのでしょうか。
「阿弥陀仏の御心が、南無阿弥陀仏となって今、私たちに届いている」
ということと、
「阿弥陀仏の御心を、頂いている」
ということとは違う、とのこと。
「届いていても、頂いていない人が未信の人です」
ともお書きでした。
ですから、本文でお尋ねしているのです。
「では、頂くには、どうするのですか」と。
「しんちゃん」さん、お答えくださいませんか。
ついでに、「届いて頂いた人」と「届いたけど頂いていない人」とは、
どこがどう違うのでしょうか。
尋ねているのは
お分かりでないようなので、繰り返します。
本文でお尋ねしているのは、
「では、南無阿弥陀仏を頂くには、どうするのですか」ということです。
今回のお言葉を使わせていただけば、
「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」
という身になるには、どうするのですか、ということです。
「しんちゃん」さん、お答えくださいませんか。
親鸞聖人のお言葉で、ですよ。
ああ、それにしても、
「南無阿弥陀仏は、私たちに、届いてはいても、頂いてはいない」
という、ビックリ珍説、
はてさて、親鸞聖人は、そんなこと、どこにおっしゃっていますか?
本文でお尋ねしているのは、
「では、南無阿弥陀仏を頂くには、どうするのですか」ということです。
今回のお言葉を使わせていただけば、
「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」
という身になるには、どうするのですか、ということです。
「しんちゃん」さん、お答えくださいませんか。
親鸞聖人のお言葉で、ですよ。
ああ、それにしても、
「南無阿弥陀仏は、私たちに、届いてはいても、頂いてはいない」
という、ビックリ珍説、
はてさて、親鸞聖人は、そんなこと、どこにおっしゃっていますか?
無題
「どうすれば頂くことができるのか」
とお尋ねですが、それはどうすれば信心獲得できるのかという、信心にいたる条件をお尋ねなのですか。
ならば、そのような条件はありません。条件というものは、それがクリアできれば目標が達成されるものです。そして、条件とは、こちらから手を出すものです。信心獲得に条件はありません。
ただただ、仏願の生起本末を聞くばかりです。これ以外にありません。
そして、届いていると頂くについては、
「月かげのいたらぬさとはなけれども
ながむる人のこころにぞすむ」
ということを申し上げているわけです。
つまり、
「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」
のおこころを申し上げたわけです。
ビックリ珍説などと、はねのけるような言い方をなさらずに、もう少し真摯な対応をのぞみます。
親鸞聖人もそのような対応は、なさらないと思いますよ。
とお尋ねですが、それはどうすれば信心獲得できるのかという、信心にいたる条件をお尋ねなのですか。
ならば、そのような条件はありません。条件というものは、それがクリアできれば目標が達成されるものです。そして、条件とは、こちらから手を出すものです。信心獲得に条件はありません。
ただただ、仏願の生起本末を聞くばかりです。これ以外にありません。
そして、届いていると頂くについては、
「月かげのいたらぬさとはなけれども
ながむる人のこころにぞすむ」
ということを申し上げているわけです。
つまり、
「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」
のおこころを申し上げたわけです。
ビックリ珍説などと、はねのけるような言い方をなさらずに、もう少し真摯な対応をのぞみます。
親鸞聖人もそのような対応は、なさらないと思いますよ。
質問はこれです
どうすれば南無阿弥陀仏をいただけるのですか、の問いに、
「ただただ、仏願の生起本末を聞くばかりです。これ以外にありません。」
とのお答えでした。
ということは、仏願の生起本末をお話しくださる知識にお会いして、
よくよく聞かせていただく、これ以外にない、ということでしょうか?
もう一点については、上記が明らかになってから解明していきますので。
「ただただ、仏願の生起本末を聞くばかりです。これ以外にありません。」
とのお答えでした。
ということは、仏願の生起本末をお話しくださる知識にお会いして、
よくよく聞かせていただく、これ以外にない、ということでしょうか?
もう一点については、上記が明らかになってから解明していきますので。
無題
そうですね。
蓮如上人も
「仏法は聴聞にきわまるなり」
とおっしゃっています。
ただ、善知識に遇うことも私の努力ではありません。
善知識に遇うことができたのも、阿弥陀さまが私を照らし導いて下さっているからです。
ですので、「あう」という漢字は「会う」よりも、「遇う」のほうがよいでしょう。
「会う」とは、約束して会うということです。
「遇う」とは、たまたまということです。
蓮如上人も
「仏法は聴聞にきわまるなり」
とおっしゃっています。
ただ、善知識に遇うことも私の努力ではありません。
善知識に遇うことができたのも、阿弥陀さまが私を照らし導いて下さっているからです。
ですので、「あう」という漢字は「会う」よりも、「遇う」のほうがよいでしょう。
「会う」とは、約束して会うということです。
「遇う」とは、たまたまということです。
確認します
さっそく有難うございます。
「あう」の文字の用法も含めて、確認します。
南無阿弥陀仏をいただくには、善知識にお遇いして、
仏願の生起本末を聞かせていただく、これ以外にない、
ということで、よろしいですか?
「あう」の文字の用法も含めて、確認します。
南無阿弥陀仏をいただくには、善知識にお遇いして、
仏願の生起本末を聞かせていただく、これ以外にない、
ということで、よろしいですか?
無題
そういうことですが、「南無阿弥陀仏をいただくには、善知識にお遇いして」という表現が、どうもしっくりきません。
なぜしっくりこないのかを考えますと、この表現が、「南無阿弥陀仏をいただく」ことが目標で、「善知識に遇う」ことが手段になっているからです。
しかもそれだと、初めから「南無阿弥陀仏をいただく」ことがどんなことか分かっていて、どんな人が「善知識」なのか分かっていることになります。
では善知識はどうでもいいのかというと、そうではありません。善知識に遇うことができなければ、このたび空しく過ごしてしまいます。
蓮如上人も五重の義でおっしゃっています。
しかし、それは信の上から言えることであります。「善知識に遇うことがなかったら、また迷いの世界を経巡らなければならないことであった」と。
質問の意図するところがよく分からないので、こういうお答えになりました。
お尋ねをよく理解できずに申し訳ありません。重ねてお尋ね下さい。
なぜしっくりこないのかを考えますと、この表現が、「南無阿弥陀仏をいただく」ことが目標で、「善知識に遇う」ことが手段になっているからです。
しかもそれだと、初めから「南無阿弥陀仏をいただく」ことがどんなことか分かっていて、どんな人が「善知識」なのか分かっていることになります。
では善知識はどうでもいいのかというと、そうではありません。善知識に遇うことができなければ、このたび空しく過ごしてしまいます。
蓮如上人も五重の義でおっしゃっています。
しかし、それは信の上から言えることであります。「善知識に遇うことがなかったら、また迷いの世界を経巡らなければならないことであった」と。
質問の意図するところがよく分からないので、こういうお答えになりました。
お尋ねをよく理解できずに申し訳ありません。重ねてお尋ね下さい。
残念ながら肝心なところで
質問がよく分かられなかったから、「そういうことです」という誤答をされたのかも知れませんね。
「そういうこと」では、ないのです。
「聞即信の一念」で救われるのですが、その「聞」とは、知識の声を聞くのではありません。
久遠の弥陀の呼び声を聞いた一念に、破闇満願と救い摂られるのです。
ここは極めて重要なところで、丁寧にいろいろとお答えいただきましたが、残念ながら、肝心な所で、
違ってしまいました。
知識の言葉を聴いて、救われるのではない、弥陀の直の呼び声が聞こえたときに、救われるのです。
まあ、それもこれも、私の尋ねかたが悪かったのでしょう。
今回、いろいろとやりとりをしましたのは、結局は、この結論を申し上げたかったからです。
誘導尋問みたいに感じられたかも知れません。失礼致しました。
「そういうこと」では、ないのです。
「聞即信の一念」で救われるのですが、その「聞」とは、知識の声を聞くのではありません。
久遠の弥陀の呼び声を聞いた一念に、破闇満願と救い摂られるのです。
ここは極めて重要なところで、丁寧にいろいろとお答えいただきましたが、残念ながら、肝心な所で、
違ってしまいました。
知識の言葉を聴いて、救われるのではない、弥陀の直の呼び声が聞こえたときに、救われるのです。
まあ、それもこれも、私の尋ねかたが悪かったのでしょう。
今回、いろいろとやりとりをしましたのは、結局は、この結論を申し上げたかったからです。
誘導尋問みたいに感じられたかも知れません。失礼致しました。
無題
管理人さんいわく、
「「聞即信の一念」で救われるのですが、その「聞」とは、知識の声を聞くのではありません。
久遠の弥陀の呼び声を聞いた一念に、破闇満願と救い摂られるのです。 」
「知識の言葉を聴いて、救われるのではない、弥陀の直の呼び声が聞こえたときに、救われるのです。」
とありますが、全くその通りです。
ですから、仏願の生起本末を聞く、これ以外にないと申し上げていたのです。
そういうことでしたら、「善知識の言葉で救われるのか、弥陀のよびごえで救われるのか」と聞いて下さったらよかったです。
しかし、管理人さんはちゃんと知っておられるのですから、そういう質問よりも、こういうことですと仰って下さるほうが、たすかります。
「「聞即信の一念」で救われるのですが、その「聞」とは、知識の声を聞くのではありません。
久遠の弥陀の呼び声を聞いた一念に、破闇満願と救い摂られるのです。 」
「知識の言葉を聴いて、救われるのではない、弥陀の直の呼び声が聞こえたときに、救われるのです。」
とありますが、全くその通りです。
ですから、仏願の生起本末を聞く、これ以外にないと申し上げていたのです。
そういうことでしたら、「善知識の言葉で救われるのか、弥陀のよびごえで救われるのか」と聞いて下さったらよかったです。
しかし、管理人さんはちゃんと知っておられるのですから、そういう質問よりも、こういうことですと仰って下さるほうが、たすかります。