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 ご本山のサイトのトップページに、「教章」について、リンクが
張られています。
 クリックすると、このページになります。

「浄土真宗の教え」教章

 ここに、御本尊について、こう記されています。

---------------------------------------------------------------
本尊(ほんぞん)

  阿弥陀如来(あみだにょらい) (南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ))

---------------------------------------------------------------

 ご本尊は、大日如来でも、薬師如来でも、釈迦如来でもない、
諸仏の王といわれ、本師本仏、すべての仏の師匠である阿弥陀如来
であることは、皆さんもお分かりでしょう。
 しかし、その阿弥陀如来でも、木像本尊、絵像本尊、名号本尊と
いろいろあり、どれにすべきか、分からない人もあろうかと、今回
「南無阿弥陀仏」である、すなわち、ご名号本尊であることを明記
されました。
 昨年の、教章改定の、大きなポイントの一つです。

 よって、各末寺にご安置されているような木像ではなく、
また各ご門徒のお宅にお迎えされているような絵像ではなく、
「南無阿弥陀仏」のご名号本尊こそ、浄土真宗の正しい御本尊
であるということです。

 年頭にあたり、中外日報に不二川総長は「教章にしたがって
いきましょう」と明言なされました。
 速やかに、まず最も大事な御本尊から、改めさせていただき
ましょう。

 親鸞聖人も、蓮如上人も、そのようになされたことは明らかで
あり、かつてご本山からの「伝道院紀要」にも、「さまざまな
歴史的資料からみて、親鸞聖人がご名号本尊になさっておられた
ことは明白である」と書かれておりました。
 蓮如上人も、「御一代記聞書」に、
「他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像というなり。
 当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」

浄土真宗の正しい御本尊は、名号であると仰せです。
 宗祖にしたがい、蓮師にしたがい、そしてご本山の教章にしたがう
ならば、ただちに、ご名号本尊にいたしましょう。
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御本尊について
たしか、本山の親鸞さまのアニメの資料にも親鸞さまは名号本尊を礼拝の対象にされたとありました。
 しかしなぜそのようにされたのでしょうか?
一般人 2009/01/25(Sun)01:18:13 編集
名号本尊について
名号本尊と教義安心の関係

 では、親鸞聖人や蓮如上人はなぜ名号本尊をもって、浄土真宗の正しい御本尊と
御教示になったのか。
 その御本尊と浄土真宗の教義安心との関係を、明らかにしておきましょう。
 当然のことながら、教義安心と無関係な御本尊はありえません。真宗において
は、その関係は特に顕著であります。
「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ、人にも教え聞かし
むるばかりなり」
の仰せにも明らかなように、親鸞聖人の教えは常に釈迦の教法でありました。
 一口に釈迦の教法といいましても、それは膨大な一切経であります。
 幾度も一切経を読破なされた親鸞聖人は、
「それ真実の教を顕さば、則ち、
大無量寿経これなり」(教行信証)
 釈迦の真意が説かれているのは、『大無量寿経』のみだと喝破なされています。

『大無量寿経』には、阿弥陀仏の本願が説かれていますが、親鸞聖人は、
「横超とは即ち、願成就一実円満之真教真宗是れなり」(教行信証)
と仰有って、願成就文の教え以外に、浄土真宗の教義も安心もないことを
明示なされています。
 浄土真宗の根本聖典は『教行信証』六巻でありますが、その眼目は『信巻』
上下二巻にあります。
 その『信巻』上下二巻は、願成就文を詳細に解説せられたものです。
 されば願成就文の教え以外に、浄土真宗の教義も安心もありませんから、
覚如上人は、
「それについて三経の安心あり。その中に大経をもって真実とせらる。
 大経の中には第十八の願をもって本とす。
 十八の願にとりてはまた願成就
をもって至極とす」(改邪鈔)
と教えられ、本願は本ではあるがいまだ至極ではない。
 浄土真宗の至極は願成就の教えにあることを、明白になされています。
 よって『改邪鈔』には、次のように断言なされています。
「かの心行を獲得せんこと念仏往生の願成就の『信心歓喜乃至一念』等の文を
もって依憑とす、この外未だ聞かず」
 願成就文の教え以外に、覚如は真宗の教えを聞いたことがないとまで
仰有っています。

 浄土真宗の教義安心の至極である願成就文には、
「聞其名号信心歓喜乃至一念」
と教えられ、所信の体は名号であることが、明らかになっております。
 勿論、所信の体以外に御本尊はありえませんから、かかる願成就文の
教義安心から、親鸞聖人は名号ばかりを御本尊とせられたのであります。
 しかも、願成就文を教義安心の至極とせられたのは、親鸞聖人のみの
達見でありましたから、名号を本尊とせられたのは、親鸞聖人が最初で
あったのです。
 故に、蓮如上人は、
「浄土真宗においては、木像よりは絵像、絵像よりは名号を本尊にせよ」
と御教示になったのであります。
 かかる浄土真宗の教義安心の至極である願成就文の立場からは、木像でも
絵像でも名号でも同じだから、どれを本尊にしてもよろしいなどとは、
断じて許容さるべきことではないのです。
管理人です 2009/01/26(Mon)16:35:03 編集
無題
管理人さま
御本尊についてのご教示ありがとうございました。
少し難しいですが、
親鸞聖人の教え=釈迦の教えであり
釈迦の真意は『大無量寿経』にある。
大無量寿経には阿弥陀仏の本願が教えられている。その真意は18願成就文にあり、その中でも
聞其名号信心歓喜乃至一念の文が重要である。
と言うことでしょうか?
 それから『所信の体』とはどういう意味でしょうか?なにぶん素人でして専門用語が理解できません。もう少し平たく教えていただけませんか?
一般人 2009/01/26(Mon)22:16:20 編集
御本尊・続き
コメント有難うございます。

前段は、その通りです。
後段について、「所信の体」とは、ひらたく言えば、私たちは、
何のお力によって救われるのか、ということです。
「それが、名号である」とは、どういうことか、というと、
私たちは、南無阿弥陀仏(名号)のお力によって、この世で正定聚に
救われるのである、ということです。

親鸞聖人は、『正信偈』に、
「本願名号正定業」
とおっしゃっています。
本願の名号(南無阿弥陀仏)には、私たちを、いつ死んでも極楽参り間違いなし
という、正定聚不退転に救い摂るはたらき、力がある、ということです。

よって、「所信の体」以外にご本尊はありませんので、浄土真宗の正しい
御本尊は、名号である、と教えてくだされているのであります。
管理人です 2009/01/27(Tue)00:03:02 編集
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