世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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1月20日の本願寺新報を見ていると、報恩講のときに、
みんなで「精進料理」をいただきました、という記事が載って
いました。
京都の、精進料理で有名なお店があり、そこの指導を受けて
作ったので、おいしかった!というような記事です。
ちょっと待ってくださいよ。
ここでいう「精進」とは、肉食をしない、すなわち殺生を
しないという戒律を守らねばならない聖道諸宗の僧侶たちが
食べる、肉や、魚や、卵などの入らない料理のことです。
わが祖師親鸞聖人は、殺生せずしては生きられらない十方
衆生のすがたを見抜かれた阿弥陀如来が、ありのままで救う
ぞと誓われた「弥陀の誓願」を明らかにされるために、敢え
て31歳の御時、肉食妻帯をなされました。
その宗祖の御恩に報いる集まりである報恩講で、何でまた
「精進料理」をたべなきゃならんのですか?
精進料理を食べて、「私は肉食なんかしていませんよ」と
さも善い行いをしたかのように思っているのでしょうが、
宗祖の教えに反したことをやって、それで報恩講ですか?
そういう偽善の仮面を引き剥がされて、地獄一定の真実の
自己を照破されないかぎり、
「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、親鸞一人が為なり
けり。さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、
助けんとおぼしめしたちける、本願のかたじけなさよ」
の歓喜は、味わえないことでしょう。
それにしても、そういう行事がたとえ有ったって、新聞に
載せるかかよ。Sさん。「ああ、何てことやってるんだよ」と
真宗人としての良識を発揮して、記事には載せない、という
英断も、必要だと思いますよ。
編集部さん、ご検討を。
みんなで「精進料理」をいただきました、という記事が載って
いました。
京都の、精進料理で有名なお店があり、そこの指導を受けて
作ったので、おいしかった!というような記事です。
ちょっと待ってくださいよ。
ここでいう「精進」とは、肉食をしない、すなわち殺生を
しないという戒律を守らねばならない聖道諸宗の僧侶たちが
食べる、肉や、魚や、卵などの入らない料理のことです。
わが祖師親鸞聖人は、殺生せずしては生きられらない十方
衆生のすがたを見抜かれた阿弥陀如来が、ありのままで救う
ぞと誓われた「弥陀の誓願」を明らかにされるために、敢え
て31歳の御時、肉食妻帯をなされました。
その宗祖の御恩に報いる集まりである報恩講で、何でまた
「精進料理」をたべなきゃならんのですか?
精進料理を食べて、「私は肉食なんかしていませんよ」と
さも善い行いをしたかのように思っているのでしょうが、
宗祖の教えに反したことをやって、それで報恩講ですか?
そういう偽善の仮面を引き剥がされて、地獄一定の真実の
自己を照破されないかぎり、
「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、親鸞一人が為なり
けり。さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、
助けんとおぼしめしたちける、本願のかたじけなさよ」
の歓喜は、味わえないことでしょう。
それにしても、そういう行事がたとえ有ったって、新聞に
載せるかかよ。Sさん。「ああ、何てことやってるんだよ」と
真宗人としての良識を発揮して、記事には載せない、という
英断も、必要だと思いますよ。
編集部さん、ご検討を。
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これが真宗の考えですか?
<現在の浄土真宗の教えまとめ>
・人間死んだら終わり。霊魂は存在しない
・当然、あの世もない
・阿弥陀如来は頭の中の理屈上でだけ存在するもの
・葬式は死者の霊のために行うのではない
・葬式は参列者が死者を偲ぶのと、真宗の教えを学ぶ場である
・死後に霊を供養するということも無意味である
・法事も供養する場ではなく、生きている人間が真宗の教えを学ぶ場である
・仏壇も先祖供養するためのものでなく、真宗の教えを学ぶためのもの
・墓も生きている者が死者を偲ぶだけの場である
・占い、迷信、オカルトなど科学的証明ができないものを信じる者は馬鹿である
・よって、聖徳太子の夢のお告げを信じた親鸞は馬鹿である
・阿弥陀如来像、親鸞像なども単なる物質であるので、これに対して祈りを捧げるのも馬鹿である
・報恩講などのお布施は、親鸞はもう存在しないし、阿弥陀如来は架空のものなので、
現在の僧侶に対するお礼として納めるべきもの
ある掲示板から発見しました。本当ならえらいことですね。
・人間死んだら終わり。霊魂は存在しない
・当然、あの世もない
・阿弥陀如来は頭の中の理屈上でだけ存在するもの
・葬式は死者の霊のために行うのではない
・葬式は参列者が死者を偲ぶのと、真宗の教えを学ぶ場である
・死後に霊を供養するということも無意味である
・法事も供養する場ではなく、生きている人間が真宗の教えを学ぶ場である
・仏壇も先祖供養するためのものでなく、真宗の教えを学ぶためのもの
・墓も生きている者が死者を偲ぶだけの場である
・占い、迷信、オカルトなど科学的証明ができないものを信じる者は馬鹿である
・よって、聖徳太子の夢のお告げを信じた親鸞は馬鹿である
・阿弥陀如来像、親鸞像なども単なる物質であるので、これに対して祈りを捧げるのも馬鹿である
・報恩講などのお布施は、親鸞はもう存在しないし、阿弥陀如来は架空のものなので、
現在の僧侶に対するお礼として納めるべきもの
ある掲示板から発見しました。本当ならえらいことですね。