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世界の光・親鸞聖人の教えを世界に! 夢は大きく、現状には厳しい目を!
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「みほとけとともに」では「親のよび声」と題して、本願寺派布教使の
成川 了真 (なるかわ りょうしん)氏の話でした。
 親の子によびかける姿から、阿弥陀仏の親心、慈悲の心を知る、という
話でした。まあ、ただ聞けば、ほのぼのとした、親と子、おじいちゃんと
孫との話ですが、問題は、
「親の慈悲と、仏の慈悲とでは、全く異なる」
という重要な点が、全く無視されていることです。

 たしかに、この世の人間の慈悲の中では、親の子に対する慈悲ほど、
献身的で、ひたむきで、気高いものはないでしょう、
 しかし、あくまでそれは「人間の慈悲」でありますから、仏さまの
慈悲、なかんずく、本師本仏の阿弥陀仏の大慈悲とは、全く異なるの
であります。
 たとえば、阿弥陀仏の大慈悲は、無量寿といわれるように永続する
慈悲ですが、悲しいかな、人間の慈悲は、そうではありません。
 ある方から聞きましたが、娘を亡くしたお母さんが「一緒に死んで
やりたい」とさえ思ったと言われます。ところが、それから二十年、
「今頃、嫁にやらねばならんとしたら、だいぶかかったやろうなあ。
死んでくれておってよかった」
と言われたそうです。
 いいえ、そのお母さんを、責めているんではありません。私など、
もっと浅ましい、続かない慈悲しかないのですから。

 そんな限界をもった人間の慈悲を、阿弥陀仏の慈悲と同じだなどと
どうして言えるでしょう。もし、「分かりやすく、譬えとして出した
のだ」というのであれば、その譬えで合わない部分は、ちゃんと説明
しておかないと、大変な誤解を与えることになります。

 どうも、成川氏、そのへんは、全く分かっておられないようで。
 今回は、この点だけ、指摘しておきます。
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無題
はて?

人間の慈悲と阿弥陀仏の慈悲が同じと言ったのでしょうか?

親の姿に「極大慈悲母」と言われる阿弥陀仏の慈悲を知ったんでしょう?
しんちゃん 2008/09/13(Sat)14:43:14 編集
内容について
成川氏のお話の内容については、
HP上にテキストも残っておりますので、
そちらをご確認ください。
管理人です 2008/09/13(Sat)18:42:58 編集
無題
よびかけずにはおれない極大慈悲母たる阿弥陀さまのお話でした。

南無阿弥陀仏・・・
しんちゃん 2008/09/14(Sun)09:34:44 編集
聖人の教えを
「赤ちゃんが気づいていようが気づいていまいが、抱きかかえている親からすると、
常に呼びかけずにはいられない、それが阿弥陀さまの呼び声、つまり慈悲の心では
ないだろうか」
というのは、成川氏のお父さんの考えであり、

「仏法を聞くということは、仏さまの親心を尋ね知ることです」
というのも、「ある方」の考えであり、

「この弥陀をよりどころとして、あなた自身のかけがえのない人生を大切に
生きてほしいと願ってくださっている、それが阿弥陀さまの親心ではないだろうか」
というのも、成川氏の味わいです。

私たちが聞きたいのは、親鸞聖人の教えなのです。
成川氏の教えではないのです。

「しんちゃん」さんも、いろいろと弁護なさっていますが、上記の3説が、
独断ではなく、親鸞聖人や、蓮如上人のお言葉に根拠のあることなら、
それを挙げてください。

でなければ、ただの「珍しき法」に過ぎません。御文章一帖一通、ご存知でしょう?
管理人です 2008/09/15(Mon)23:58:54 編集
無題
人間の慈悲と阿弥陀仏の慈悲は同じではありません。

ただ、親鸞聖人は、如来大悲を親心にたとえられることがあります。

お父さんは「ないだろうか」とおっしゃっていますので、これはお父さんの味わいです。教えではありません。

また、氏自身も「この弥陀をよりどころとして、あなた自身のかけがえのない人生を大切に
生きてほしいと願ってくださっている、それが阿弥陀さまの親心ではないだろうか」とおっしゃっており、味わいになっています。しかし、ここは教えに触れる部分ですから、断定すべきでしょう。

親心を聞くということについても、七子のたとえや「極大慈悲母」の御文、「一子のごとく憐念す」の御文を引用して、しっかりとお伝えするべきでしょう。

しかし、それがただちに人間の慈悲と阿弥陀仏の慈悲が同じと言っているということには、なりません。
しんちゃん 2008/09/16(Tue)10:22:01 編集
たとえは一分をあらわす
慈悲を説く時、親の子を思う気持ちを例に出せば、分かりやすいでしょう。
「たとえ」として出されるのは、分かります。

ただし、「たとえは一分をあらわす」と言われるとおり、ものごとのある面を
よく表しているたとえ話でも、すべてを表すことはできません。
何もかも、そのたとえに当てはめて理解しようとすると、間違うことがあります。

そこで、「たとえ」の、合うところと、合わないところを、明らかにして
おかねばならない、これは、布教の現場におられる方ならば、よくご存知でしょう。

もう一度、1月26日の本文をお読みください。私は、

「もし、「分かりやすく、譬えとして出した
のだ」というのであれば、その譬えで合わない部分は、ちゃんと説明
しておかないと、大変な誤解を与えることになります。」

と書いているのです。
今回は、その点を、指摘しておきたかったのです。

まあ、ご理解いただけたようなので、有難うございました。
管理人です 2008/09/16(Tue)12:16:27 編集
無題
辛口書いてあるぐらいなので、内容は辛口になると思いますが、

「全く分かっておられない」

というご発言は、誤解であると思い、少しご相談したところです。

有難うございました。
しんちゃん 2008/09/16(Tue)15:47:13 編集
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