世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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6.「ただほど高いものはない」
といわれる
では「歎異抄」の“ただ”とは
先に、「念仏さえ称えていれば、極楽へ往ける、と親鸞聖人は教えられた」
という誤解について述べましたが、しかし、「ここを読んだら、そのように
読めるじゃないか」という声が聞こえてきそうなのが、「歎異抄 第二章」の
「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべしと、よき人の
仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり」
というお言葉です。
聖人の教えは「唯信独達の法門」と聞いてはいても、ここを読めば「ただ
念仏さえ称えておればよいのだ」と、読んでしまうし、理解してしまいます。
ところが、この「ただ」、ただの「ただ」ではない、「ただ」なのです。
一節を引用すると、
「どんな難聴の者にも届く、不可称不可説不可思議の声なき“ただ”であり、
弥陀と私が同時に生きた「他力信心」をあらわす“ただ”である」
さて、その真意は。
「歎異抄をひらく」の紹介サイト
といわれる
では「歎異抄」の“ただ”とは
先に、「念仏さえ称えていれば、極楽へ往ける、と親鸞聖人は教えられた」
という誤解について述べましたが、しかし、「ここを読んだら、そのように
読めるじゃないか」という声が聞こえてきそうなのが、「歎異抄 第二章」の
「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべしと、よき人の
仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり」
というお言葉です。
聖人の教えは「唯信独達の法門」と聞いてはいても、ここを読めば「ただ
念仏さえ称えておればよいのだ」と、読んでしまうし、理解してしまいます。
ところが、この「ただ」、ただの「ただ」ではない、「ただ」なのです。
一節を引用すると、
「どんな難聴の者にも届く、不可称不可説不可思議の声なき“ただ”であり、
弥陀と私が同時に生きた「他力信心」をあらわす“ただ”である」
さて、その真意は。
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