世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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あるところで、読んだ言葉である。
「善知識 なぜか記さぬ 体験記」
そういえば、親鸞聖人も、蓮如上人も、弥陀に救い摂られた
年月日時、場所、具体的な体験を記されたところは、ただの
一箇所もない。
ところが、「仏壇の前で、拝んでいたとき、光る阿弥陀様と
対面できた」だとか、「風呂場にいたとき、念仏が吹き上が
り、躍り上がって喜んだ」とか、具体的な体験談を自慢げに
語り、聞かせる、そんな自称「浄土真宗」の集まりがある。
親鸞聖人、蓮如上人の、全く語られなかったことを語り、
為されなかったことを為す連中は、いったい、どなたの教え
を、信奉する者達なのか。
「苦労した 体験談が 自慢ダネ」
所詮は、苦労した自己の体験を、自慢話のタネにしている
だけの輩であろう。最初は、珍しげに聞いていた人たちも、
やがては「またあの話か」「ほかに話すことはないのか」と
アキレて去って行くばかりである。
「善知識 なぜか記さぬ 体験記」
そういえば、親鸞聖人も、蓮如上人も、弥陀に救い摂られた
年月日時、場所、具体的な体験を記されたところは、ただの
一箇所もない。
ところが、「仏壇の前で、拝んでいたとき、光る阿弥陀様と
対面できた」だとか、「風呂場にいたとき、念仏が吹き上が
り、躍り上がって喜んだ」とか、具体的な体験談を自慢げに
語り、聞かせる、そんな自称「浄土真宗」の集まりがある。
親鸞聖人、蓮如上人の、全く語られなかったことを語り、
為されなかったことを為す連中は、いったい、どなたの教え
を、信奉する者達なのか。
「苦労した 体験談が 自慢ダネ」
所詮は、苦労した自己の体験を、自慢話のタネにしている
だけの輩であろう。最初は、珍しげに聞いていた人たちも、
やがては「またあの話か」「ほかに話すことはないのか」と
アキレて去って行くばかりである。
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自慢話
私も、体験談を自慢げに話す布教師に長い間MCされてきました。その布教師は、
「次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ『そのままこい』『そのままでよい』とは何と有難いことでしょうか」
と自らの体験を発表したりしています。
また自分の弟子に(ひょっとしたら布教師さん本人?)こんなことを書かせております。
「さて次に貴方々にはどんな信仰体験があるのか判りませんが、しきりに編集長の信仰体験を追求しておられますが、仏法求めるきっかけは違っても、真実久遠の弥陀に救われた魂の道程は同じですから、私の体験を述べさせて頂きましょう」
「尚こびりついて離れない自力の執心に悲泣悶絶、誰あって声のかけ手のない苦しいドン底に突き落とされた時に、私は久遠の弥陀のみ声をハッキリ聞かせて頂いたのです」
「三定住の境地はそんな生やさしい、苦しみではありませんでした」
そんな知識から離れて、浄土真宗の本当の教えに遇えた私は幸せ者です。
「次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ『そのままこい』『そのままでよい』とは何と有難いことでしょうか」
と自らの体験を発表したりしています。
また自分の弟子に(ひょっとしたら布教師さん本人?)こんなことを書かせております。
「さて次に貴方々にはどんな信仰体験があるのか判りませんが、しきりに編集長の信仰体験を追求しておられますが、仏法求めるきっかけは違っても、真実久遠の弥陀に救われた魂の道程は同じですから、私の体験を述べさせて頂きましょう」
「尚こびりついて離れない自力の執心に悲泣悶絶、誰あって声のかけ手のない苦しいドン底に突き落とされた時に、私は久遠の弥陀のみ声をハッキリ聞かせて頂いたのです」
「三定住の境地はそんな生やさしい、苦しみではありませんでした」
そんな知識から離れて、浄土真宗の本当の教えに遇えた私は幸せ者です。