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世界の光・親鸞聖人の教えを世界に! 夢は大きく、現状には厳しい目を!
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 先週末の、「みほとけとともに 西本願寺の時間」、聞かれましたか?
 その前の週、「真実信心とは、阿弥陀様のおはたらきに、こころあたり
ある生活を送ること」という、トンデモ説教を炸裂させた、兵庫県廣宣寺
の住職にして、本願寺派布教使、門中浄光氏。今週も、やってくれました。
 
 親鸞聖人とは、
「阿弥陀様のおはたらきにこころあたりのある生活を送られた人です」
と、またまた、のたまったのです。
 だからあ、そんなこと、宗祖は、どこにおっしゃっているのですか。
あなたが勝手に言っているだけでは、ないのですか。

 もっとスゴイのは、最後のくだりです。
「報恩講とは、親鸞さまのお人柄を通し、私自身の無明(煩悩の闇)に
気付かせていただき、一度ならず、幾重にも幾重にものお育てにあずかる
法要なのです」
 
 おやおや?こんなこと言い出しましたね。
 私自身の無明に気付く。
 気付いて、どうするのですか?
 明確にするためには、その「無明」の意味を明確にしておかねばなら
ないでしょう。
「無明長夜の闇」と和讃に宗祖が仰せられた、本願疑惑心、疑情のことか。
「無明煩悩しげくして」と仰せられた、百八の煩悩のことか。
 もし、前者の義であるならば、その気付いた本願疑惑心を、どうすれば
よいのか。
 もし、後者の義であるならば、前者の「無明」は、すでに晴れている
と言われるのか。だとすると、「苦しみ悩む人々」と言われているのと
合いません。なぜなら、
「還来生死輪転家 決以疑情為所止」と正信偈に仰せの通り、全人類の
「苦しみ悩む」根源は、疑情以外にない、と祖師は明言されています。
 現に苦しみ悩んでいるのですから、疑情は晴れていないことになる。
 さすれば、どうしても、前者の「疑情」「本願疑惑心」の義です。

 そこで、分からなくなるのです。
「気付いた無明を、どうすればよいのですか」

 おそらくは、後者の義だと、言いたいのでしょうが、上述のとおり、
すでに詰んでいるんですけどね。門中さんじゃ、分からないでしょうが。
この辺、宗門の貴公子、吉村隆真師だったら、読み解いていただけると
期待しています。
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