世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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今朝の「みほとけとともに 西本願寺の時間」聞かれましたか。
大阪・堺のドブ川が、町の工業化とともに汚れ、悪臭を放ち、
人々が近づかなくなった。ところが、美術の先生が「そんな川
にも美しさがある」と言う。それは、どんなドブ川でも、陽光
を受けて、輝くそのキラメキは、美しい、という話の流れでした。
そこで宗祖親鸞聖人の「凡夫というは、無明煩悩われらが身に
みちみちて、欲も多く、いかり腹立ち、そねみねたむ心多く、
ひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず消えず、
絶えず」を引用。
煩悩に穢れ、悪臭を放っている私たちでも、南無阿弥陀仏に
よって輝きを与えられる、という話なのですが、私の横で聞い
ていた人が、「ウチら、そんな輝いとるとは、思えんが」と、
ポツリと言われました。私もまったく同感です。
南無阿弥陀仏は、今すでに、私たちに届いている、というが、
それにしては、相も変わらず、迷い苦しみ続けているし、後生
に何の明かりもない。不安いっぱいの心で、生活しています。
「南無阿弥陀仏は、もう届いていますよ」と、僧侶がいくら
言ったところで、生活者にはその実感も、喜びも、ましてや
感謝もないから、僧侶の話は、宙に浮いてしまうのではない
でしょうか。
「いや、ホントに、届いているんですか?」というのが、説教
聞いた多くのご門徒の真情なんですよ。お客僧は、お念仏肝要
とだけ言って、戻って行かれるが、残った住職は、実感もない、
手ごたえのない、ポカンとしておられるご門徒に、どうフォロー
したらよいのですか。
それと同じことが、ラジオの全国放送でも流れているだけ。
ドブ川に、陽光の輝き!
いい喩えを思いついた、とでも思われたのでしょうが、一般
生活者の感覚とは、余りにかけ離れて、煩悩即菩提、生死即涅槃、
転悪成善の境地をおっしゃりたかったのでしょうが、ちとばかり
ムリがあったのではないでしょうか。
大阪・堺のドブ川が、町の工業化とともに汚れ、悪臭を放ち、
人々が近づかなくなった。ところが、美術の先生が「そんな川
にも美しさがある」と言う。それは、どんなドブ川でも、陽光
を受けて、輝くそのキラメキは、美しい、という話の流れでした。
そこで宗祖親鸞聖人の「凡夫というは、無明煩悩われらが身に
みちみちて、欲も多く、いかり腹立ち、そねみねたむ心多く、
ひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず消えず、
絶えず」を引用。
煩悩に穢れ、悪臭を放っている私たちでも、南無阿弥陀仏に
よって輝きを与えられる、という話なのですが、私の横で聞い
ていた人が、「ウチら、そんな輝いとるとは、思えんが」と、
ポツリと言われました。私もまったく同感です。
南無阿弥陀仏は、今すでに、私たちに届いている、というが、
それにしては、相も変わらず、迷い苦しみ続けているし、後生
に何の明かりもない。不安いっぱいの心で、生活しています。
「南無阿弥陀仏は、もう届いていますよ」と、僧侶がいくら
言ったところで、生活者にはその実感も、喜びも、ましてや
感謝もないから、僧侶の話は、宙に浮いてしまうのではない
でしょうか。
「いや、ホントに、届いているんですか?」というのが、説教
聞いた多くのご門徒の真情なんですよ。お客僧は、お念仏肝要
とだけ言って、戻って行かれるが、残った住職は、実感もない、
手ごたえのない、ポカンとしておられるご門徒に、どうフォロー
したらよいのですか。
それと同じことが、ラジオの全国放送でも流れているだけ。
ドブ川に、陽光の輝き!
いい喩えを思いついた、とでも思われたのでしょうが、一般
生活者の感覚とは、余りにかけ離れて、煩悩即菩提、生死即涅槃、
転悪成善の境地をおっしゃりたかったのでしょうが、ちとばかり
ムリがあったのではないでしょうか。
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