世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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昨年12月4日より、本山の宗務総合庁舎1階東棟ロビーで、浄土真宗
本願寺派・同朋部の主催、(財)同和教育振興会の共催で「人権パネル展」
-御同朋の社会をめざして-が開催されています。
本年はテーマを、『絆(きずな)―日本・韓国・台湾のハンセン病―』
として、ハンセン病についての正しい知識・理解を深めてもらう内容と
なっています。
かつて、小泉内閣の頃、私の故郷、熊本の地方裁判所で、「国がハンセン
病患者を隔離した政策は、あやまりだった」と判決して以降、国も控訴を
取り下げ、政府が患者に謝罪し、これまでの誤りを見直すことになりました。
それ以降、全国的にも注目されている問題ではありますし、たしかに人間
の命に関わることですから、大事なことです。
と同時に、「仏法者として、親鸞学徒として、この種の問題には、どう
関わっていけばよいのか」は、極めて重大です。
ならば当然ながら、祖師親鸞聖人は、どうなされたかを、学ばねばなら
ないでしょう。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
実は、親鸞聖人にも次のようなことがありました。
建保二年、聖人四十二歳の時、東国上野国の佐貫という処に御滞在中の
ことでした。
「衆生利益」つまり、多くの人々を何とか救済したいの思い止み難く、
根本経典の三部経を千回よもうとなされたことがありました。
三部経とは『大無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』の三つの
ことです。
当時は、お経をまじないのように考えて経典を何回も読むことで、多くの
人々が救われるのだということが常識になっていました。
ところが、聖人は四、五日よまれてから、
「これは何事だ。
『自信教人信、難中転更難、大悲伝普化、真成報仏恩』
ではないか。
その他に何の不足があって経典をよもうとしていたのか」
と叫ばれて、直ちに常陸に向かって布教に旅立たれたことが、『恵信尼文書』
に記載されています。
「自信教人信、難中転更難、大悲伝普化、真成報仏恩」
というのは、善導大師の有名なお言葉です。
「自ら信じ、人に教えて信ぜしめることは、難きが中にうたた更に難し、
大悲を伝えて普く化す、真に仏恩報ずるになる」
と読みます。
この意味は、
「自分が信心決定(阿弥陀仏の絶対の救済にあずかること)することが難しい。
他人を同じく信心決定まで教え導くことは尚更難しいことである。しかしその
困難なことをやりとげてこそ、真の仏恩に報い奉る道である」
ということです。
当時は読経の功徳が非常に高調された時代であったのと、常に仏恩の深重なる
ことに感泣なされ、何とか如来大悲の恩徳に報いたい、どうしたらどうしたらの
聖人の御心が、ついつい、社会の伝統的因襲に引かされて一時的に惑われたわけ
ですが、直にその過ちに驚かれたのです。
「これは一体何事だ。私の為し得るたった一つの大事なことは、自分が阿弥陀仏
に救われて絶対の幸福になり、その絶対の幸福になれる道を一人でも多くの人々
に教え導くことではないのか。それだけが阿弥陀仏の洪恩に報いる道ではないか。
だったら、布教伝道、破邪顕正だけでいいではないか。これが私のただ一本の道
ではないか。生きる目的ではないか。他に何の不足があって経典をよもうと思って
いたのか。おれは誤っていた、誤っていた」
と叫ばれて、決然として常陸国へ布教に旅立たれたのです。
当時は、経典を千回もよむということは民衆に尊く受け入れられ、容易に敬わ
れる行為でした。
しかし親鸞聖人は、それらを投げ捨てて人間の為し得る最高の行為である破邪
顕正の為に、民衆の中へ飛び込んで行かれたのです。
これでもお分かりのように真実の仏法を他人に伝える破邪顕正は、信後の人に
とっては最高の報謝行であり、信前の人には最尊の宿善になることは明らかです。
一人でも有縁の人々を求めて真実の仏法を伝え、共に絶対の幸福に生き抜きま
しょう。
この出来事は、以下の映画でも取り上げられています。
「世界の光 親鸞聖人 第4部」
本願寺派・同朋部の主催、(財)同和教育振興会の共催で「人権パネル展」
-御同朋の社会をめざして-が開催されています。
本年はテーマを、『絆(きずな)―日本・韓国・台湾のハンセン病―』
として、ハンセン病についての正しい知識・理解を深めてもらう内容と
なっています。
かつて、小泉内閣の頃、私の故郷、熊本の地方裁判所で、「国がハンセン
病患者を隔離した政策は、あやまりだった」と判決して以降、国も控訴を
取り下げ、政府が患者に謝罪し、これまでの誤りを見直すことになりました。
それ以降、全国的にも注目されている問題ではありますし、たしかに人間
の命に関わることですから、大事なことです。
と同時に、「仏法者として、親鸞学徒として、この種の問題には、どう
関わっていけばよいのか」は、極めて重大です。
ならば当然ながら、祖師親鸞聖人は、どうなされたかを、学ばねばなら
ないでしょう。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
実は、親鸞聖人にも次のようなことがありました。
建保二年、聖人四十二歳の時、東国上野国の佐貫という処に御滞在中の
ことでした。
「衆生利益」つまり、多くの人々を何とか救済したいの思い止み難く、
根本経典の三部経を千回よもうとなされたことがありました。
三部経とは『大無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』の三つの
ことです。
当時は、お経をまじないのように考えて経典を何回も読むことで、多くの
人々が救われるのだということが常識になっていました。
ところが、聖人は四、五日よまれてから、
「これは何事だ。
『自信教人信、難中転更難、大悲伝普化、真成報仏恩』
ではないか。
その他に何の不足があって経典をよもうとしていたのか」
と叫ばれて、直ちに常陸に向かって布教に旅立たれたことが、『恵信尼文書』
に記載されています。
「自信教人信、難中転更難、大悲伝普化、真成報仏恩」
というのは、善導大師の有名なお言葉です。
「自ら信じ、人に教えて信ぜしめることは、難きが中にうたた更に難し、
大悲を伝えて普く化す、真に仏恩報ずるになる」
と読みます。
この意味は、
「自分が信心決定(阿弥陀仏の絶対の救済にあずかること)することが難しい。
他人を同じく信心決定まで教え導くことは尚更難しいことである。しかしその
困難なことをやりとげてこそ、真の仏恩に報い奉る道である」
ということです。
当時は読経の功徳が非常に高調された時代であったのと、常に仏恩の深重なる
ことに感泣なされ、何とか如来大悲の恩徳に報いたい、どうしたらどうしたらの
聖人の御心が、ついつい、社会の伝統的因襲に引かされて一時的に惑われたわけ
ですが、直にその過ちに驚かれたのです。
「これは一体何事だ。私の為し得るたった一つの大事なことは、自分が阿弥陀仏
に救われて絶対の幸福になり、その絶対の幸福になれる道を一人でも多くの人々
に教え導くことではないのか。それだけが阿弥陀仏の洪恩に報いる道ではないか。
だったら、布教伝道、破邪顕正だけでいいではないか。これが私のただ一本の道
ではないか。生きる目的ではないか。他に何の不足があって経典をよもうと思って
いたのか。おれは誤っていた、誤っていた」
と叫ばれて、決然として常陸国へ布教に旅立たれたのです。
当時は、経典を千回もよむということは民衆に尊く受け入れられ、容易に敬わ
れる行為でした。
しかし親鸞聖人は、それらを投げ捨てて人間の為し得る最高の行為である破邪
顕正の為に、民衆の中へ飛び込んで行かれたのです。
これでもお分かりのように真実の仏法を他人に伝える破邪顕正は、信後の人に
とっては最高の報謝行であり、信前の人には最尊の宿善になることは明らかです。
一人でも有縁の人々を求めて真実の仏法を伝え、共に絶対の幸福に生き抜きま
しょう。
この出来事は、以下の映画でも取り上げられています。
「世界の光 親鸞聖人 第4部」
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