世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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仏青の機関誌「まこと」は、その全文が、PDFで読めます。
→→コチラからご覧ください
その15ページをご覧ください。
編集員の宮崎寿洋が、こんなことを書いているのです!
「最近、私は奈良の寺社巡りをしています」
一体、宗祖親鸞聖人の教えを、あなたがたはどう聞いているのか。
「かなしきかなやこの頃の
和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして
天地の鬼神を尊敬す」(悲嘆述懐和讃)
かっこうだけは仏法者の姿をしていながら、神社に行き、
鬼神を尊敬している者を、嘆いておられるお言葉です。
神社巡りなどしているとは、どれほど、親鸞聖人を
悲しませていることか、分かりませんか?
「聖道、外道におもむきて、余行を修し余仏を念ず、
吉日良辰をえらび占相祭祀をこのむものなり。
これは外道なり。
これは偏に自力をたのむものなり」(一念多念証文)
外道の神社におもむいている、そんな者に、これは外道だ、
との厳しい仰せです。
神社を巡っているような、外道の輩が「仏教青年連盟」の
機関誌を、堂々と編集しているとは、許されることではない!
しかも、そんなことを、臆面もなく、紙面に載せた編集長も
他の編集員も、まったく分かっていない。
違いますか?
→→コチラからご覧ください
その15ページをご覧ください。
編集員の宮崎寿洋が、こんなことを書いているのです!
「最近、私は奈良の寺社巡りをしています」
一体、宗祖親鸞聖人の教えを、あなたがたはどう聞いているのか。
「かなしきかなやこの頃の
和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして
天地の鬼神を尊敬す」(悲嘆述懐和讃)
かっこうだけは仏法者の姿をしていながら、神社に行き、
鬼神を尊敬している者を、嘆いておられるお言葉です。
神社巡りなどしているとは、どれほど、親鸞聖人を
悲しませていることか、分かりませんか?
「聖道、外道におもむきて、余行を修し余仏を念ず、
吉日良辰をえらび占相祭祀をこのむものなり。
これは外道なり。
これは偏に自力をたのむものなり」(一念多念証文)
外道の神社におもむいている、そんな者に、これは外道だ、
との厳しい仰せです。
神社を巡っているような、外道の輩が「仏教青年連盟」の
機関誌を、堂々と編集しているとは、許されることではない!
しかも、そんなことを、臆面もなく、紙面に載せた編集長も
他の編集員も、まったく分かっていない。
違いますか?
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この記事にコメントする
真宗人としてどうか
masahiroさん、コメント有り難うございます。
親鸞聖人の教えをご存じない方には、分かりにくいでしょうが、
浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、釈迦一代の教えの結論である、
「一向専念無量寿仏」
無量寿仏(阿弥陀仏)一つに向け、阿弥陀仏のみを信じよ、
と教え徹していかれた方であります。
なぜならば、蓮如上人の御文章から紹介しますと、
「ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
久遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善
の凡夫・五障三従の女人をば弥陀にかぎりて、「われひとり
助けん」という超世の大願を発して、われら一切衆生を平等に
救わんと誓いたまいて、無上の誓願を発して、已に阿弥陀仏と
成りましましけり。」
私たちを、この世も、未来も、ほんとうに救いきることの
できる方は、本師本仏の阿弥陀仏以外にないのだから、弥陀
一仏に向かえ、弥陀一仏を信じよ、ということです。
その親鸞聖人の教えを、無上の尊法と仰ぎ、そのみあとを慕う
真宗人として、親鸞学徒として、神社に参ることはよいのか、
という点を問うているのです。
◆この広報委員の方も、
「訪ねただけで、礼拝はしていない」
というのであれば、そもそもなぜ神社を訪ねたのか、について、
明らかにしなければならないでしょう。
礼拝したかどうかは、身業の問題ですが、そもそも神社に行こう、
行きたい、と思ったのは、より重大な意業の問題です。
「一心一向というは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり」
と、蓮如上人も御文章に仰せです。
心の中で、阿弥陀仏以外の、諸仏・菩薩・諸神に向かう心が、
問題なのです。
納得できるような理由があって訪ねられたのならば、当方も
矛を収めます。いかがでしょうか。
親鸞聖人の教えをご存じない方には、分かりにくいでしょうが、
浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、釈迦一代の教えの結論である、
「一向専念無量寿仏」
無量寿仏(阿弥陀仏)一つに向け、阿弥陀仏のみを信じよ、
と教え徹していかれた方であります。
なぜならば、蓮如上人の御文章から紹介しますと、
「ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
久遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善
の凡夫・五障三従の女人をば弥陀にかぎりて、「われひとり
助けん」という超世の大願を発して、われら一切衆生を平等に
救わんと誓いたまいて、無上の誓願を発して、已に阿弥陀仏と
成りましましけり。」
私たちを、この世も、未来も、ほんとうに救いきることの
できる方は、本師本仏の阿弥陀仏以外にないのだから、弥陀
一仏に向かえ、弥陀一仏を信じよ、ということです。
その親鸞聖人の教えを、無上の尊法と仰ぎ、そのみあとを慕う
真宗人として、親鸞学徒として、神社に参ることはよいのか、
という点を問うているのです。
◆この広報委員の方も、
「訪ねただけで、礼拝はしていない」
というのであれば、そもそもなぜ神社を訪ねたのか、について、
明らかにしなければならないでしょう。
礼拝したかどうかは、身業の問題ですが、そもそも神社に行こう、
行きたい、と思ったのは、より重大な意業の問題です。
「一心一向というは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり」
と、蓮如上人も御文章に仰せです。
心の中で、阿弥陀仏以外の、諸仏・菩薩・諸神に向かう心が、
問題なのです。
納得できるような理由があって訪ねられたのならば、当方も
矛を収めます。いかがでしょうか。
無題
そもそも貴方の文章は「こんなヤツ」とか相手を卑下したり、教えを説くときも上から目線の感じがします。
貴方が仏法者であるならば、幾ら相手が間違っていたとしても、相手が理解し納得できるように教えてあげるべきではないでしょうか?
私がなぜ本山の悪口ばかり書くのかとコメントしてから、ずっと記事を拝見していましたが、なんら改善されていないようですね。
いくら圧力や脅迫観念で人を押さえつけても、また悪口を言ったとしても他人を変えることは出来ないと思います。
あなたが、私の忠告を素直に受け止められないのと同じです。
もし貴方が本当に親鸞聖人の教えを伝えることが目的でこのブログを運営されているのでしたら、
他人の粗探しや批判ばかりでなく、自分自身を
もっと見つめられたらいかがでしょうか?
本山にも間違いはあると思いますが、少しずつ
正されていると思いますしこれからも正されていくでしょう。しかしそれはあなた方の批判や悪口
によってではありません。因果の道理によって
正されていくのです。それを自分が正してやるなどと思っておられるのなら笑止千万、愚かなこと
だと思います。
貴方が仏法者であるならば、幾ら相手が間違っていたとしても、相手が理解し納得できるように教えてあげるべきではないでしょうか?
私がなぜ本山の悪口ばかり書くのかとコメントしてから、ずっと記事を拝見していましたが、なんら改善されていないようですね。
いくら圧力や脅迫観念で人を押さえつけても、また悪口を言ったとしても他人を変えることは出来ないと思います。
あなたが、私の忠告を素直に受け止められないのと同じです。
もし貴方が本当に親鸞聖人の教えを伝えることが目的でこのブログを運営されているのでしたら、
他人の粗探しや批判ばかりでなく、自分自身を
もっと見つめられたらいかがでしょうか?
本山にも間違いはあると思いますが、少しずつ
正されていると思いますしこれからも正されていくでしょう。しかしそれはあなた方の批判や悪口
によってではありません。因果の道理によって
正されていくのです。それを自分が正してやるなどと思っておられるのなら笑止千万、愚かなこと
だと思います。
釈迦の遺訓をご存知ないようで
一般人さん、コメント読ませていただきました。
「一般人」の貴方は、ご存知ないのも仕方ないでしょうが、
仏教を説かれた釈迦の遺訓を、挙げておきましょう。
「僧にして、法を壊つ者あるを視ながら、これを黙視し、
更に呵責駆遣せざる者は、この僧は、これ仏法中の怨なり。
若し、よく駆遣呵責せば、これ我が真仏弟子なり。」(涅槃経)
門外漢から、あれこれ言われるのは覚悟のうえで、あくまで私は
真の仏弟子として、果たすべき使命を果たしたいと思っています。
もちろん、「ヤツ」という言葉は、かなり野卑であったかとは、
反省しております。
しかし、蓮如上人の「御一代記聞書」には、
「開山聖人の御流を申しみだすことの浅ましさよ、憎さよ。
切り刻みても飽くかよ飽くかよ」と仰せられ候。
とまで、おっしゃっているお言葉もあります。
親鸞聖人の教えを乱す者は、切り刻んでも足らないと仰せです。
「ヤツ」呼ばわりくらいではないのです。
親鸞聖人、蓮如上人の破邪の厳しさに比べたら、まだまだ、私の
なんかは、生ぬるいと、思わずにおれません。
もちろん、私一人叫んだくらいで、どうなるものか、との指摘も
分かります。しかし、だからといって、法を曲げる者を、
黙視したならば、たちまち仏の敵となってしまうのです。
毀誉褒貶を度外視して、叫ばずにおれないのは、そのためです。
「一般人」の貴方は、ご存知ないのも仕方ないでしょうが、
仏教を説かれた釈迦の遺訓を、挙げておきましょう。
「僧にして、法を壊つ者あるを視ながら、これを黙視し、
更に呵責駆遣せざる者は、この僧は、これ仏法中の怨なり。
若し、よく駆遣呵責せば、これ我が真仏弟子なり。」(涅槃経)
門外漢から、あれこれ言われるのは覚悟のうえで、あくまで私は
真の仏弟子として、果たすべき使命を果たしたいと思っています。
もちろん、「ヤツ」という言葉は、かなり野卑であったかとは、
反省しております。
しかし、蓮如上人の「御一代記聞書」には、
「開山聖人の御流を申しみだすことの浅ましさよ、憎さよ。
切り刻みても飽くかよ飽くかよ」と仰せられ候。
とまで、おっしゃっているお言葉もあります。
親鸞聖人の教えを乱す者は、切り刻んでも足らないと仰せです。
「ヤツ」呼ばわりくらいではないのです。
親鸞聖人、蓮如上人の破邪の厳しさに比べたら、まだまだ、私の
なんかは、生ぬるいと、思わずにおれません。
もちろん、私一人叫んだくらいで、どうなるものか、との指摘も
分かります。しかし、だからといって、法を曲げる者を、
黙視したならば、たちまち仏の敵となってしまうのです。
毀誉褒貶を度外視して、叫ばずにおれないのは、そのためです。
追加説明
「僧にして、法を壊つ者あるを視ながら、これを黙視し、
更に呵責駆遣せざる者は、この僧は、これ仏法中の怨なり。
若し、よく駆遣呵責せば、これ我が真仏弟子なり。」(涅槃経)
これの意味を、書いておきます。
真実の仏法を破壊する者、疑謗破滅する者があるのに、それを
黙視し、破邪顕正しない者は、仏の敵である。
断固、邪を破り、真実を明らかにする者こそ、真の仏弟子である、
ということです。
ひとことでいえば、「破邪顕正しない者は仏弟子にあらず」
ということです。
更に呵責駆遣せざる者は、この僧は、これ仏法中の怨なり。
若し、よく駆遣呵責せば、これ我が真仏弟子なり。」(涅槃経)
これの意味を、書いておきます。
真実の仏法を破壊する者、疑謗破滅する者があるのに、それを
黙視し、破邪顕正しない者は、仏の敵である。
断固、邪を破り、真実を明らかにする者こそ、真の仏弟子である、
ということです。
ひとことでいえば、「破邪顕正しない者は仏弟子にあらず」
ということです。
無題
管理人様
コメントを読ませて頂きました。
>「僧にして、法を壊つ者あるを視ながら、これを黙視し、
更に呵責駆遣せざる者は、この僧は、これ仏法中の怨なり。
若し、よく駆遣呵責せば、これ我が真仏弟子なり。」(涅槃経)
とのことでしたが、これは間違っている人に対しては、悪口や中傷などをしても良いということでしょうか?
>親鸞聖人の教えを乱す者は、切り刻んでも足らないと仰せです。
「ヤツ」呼ばわりくらいではないのです。
親鸞聖人、蓮如上人の破邪の厳しさに比べたら、まだまだ、私の
なんかは、生ぬるいと、思わずにおれません。
切り刻むとありますが親鸞聖人や蓮如上人がそのようなことを言われているというのが信じられません。親鸞聖人はどこにそのようなことを教えられているのでしょうか?
百歩譲って自分が絶対正しいことをしているんだという確証があるのならそういうこともあるのかもしてませんが…
親鸞聖人でさえ善悪の分からないものが私である
と告白されていると以前お聞きしたことがあります。
仏教が正しいといってもそれを聞いて理解しているのはそれぞれの人の心です。その理解が正しいかどうかなんて確証がもてるのでしょうか?
間違いだらけなのが人間だと思います。その方が
間違ったことをしていると思われるのでしたら、
教えてあげたらいいだけのことです。
そこで、切り刻んでもゆるさん!などといった態度で接しても相手は受け取れないので意味が無いと思います。他人に教えるということは大変なことだと私は思います。自分自身が他人の指摘や忠告を素直に受け取れないことがよくあるので私はそう思います。
それから
>破邪顕正しない者は、仏の敵である
とありますが、親鸞聖人はそのようなことを言われていたのでしょうか?私は聞いたことがありません。
たしか創価学会の方が破邪顕正(はじゃけんせい)
法華折伏などとよく言われていますが、礼拝の対象は異なりますが、言葉の理解としては
同じように理解してよろしいのでしょうか?
あと、
コメントを読ませて頂きました。
>「僧にして、法を壊つ者あるを視ながら、これを黙視し、
更に呵責駆遣せざる者は、この僧は、これ仏法中の怨なり。
若し、よく駆遣呵責せば、これ我が真仏弟子なり。」(涅槃経)
とのことでしたが、これは間違っている人に対しては、悪口や中傷などをしても良いということでしょうか?
>親鸞聖人の教えを乱す者は、切り刻んでも足らないと仰せです。
「ヤツ」呼ばわりくらいではないのです。
親鸞聖人、蓮如上人の破邪の厳しさに比べたら、まだまだ、私の
なんかは、生ぬるいと、思わずにおれません。
切り刻むとありますが親鸞聖人や蓮如上人がそのようなことを言われているというのが信じられません。親鸞聖人はどこにそのようなことを教えられているのでしょうか?
百歩譲って自分が絶対正しいことをしているんだという確証があるのならそういうこともあるのかもしてませんが…
親鸞聖人でさえ善悪の分からないものが私である
と告白されていると以前お聞きしたことがあります。
仏教が正しいといってもそれを聞いて理解しているのはそれぞれの人の心です。その理解が正しいかどうかなんて確証がもてるのでしょうか?
間違いだらけなのが人間だと思います。その方が
間違ったことをしていると思われるのでしたら、
教えてあげたらいいだけのことです。
そこで、切り刻んでもゆるさん!などといった態度で接しても相手は受け取れないので意味が無いと思います。他人に教えるということは大変なことだと私は思います。自分自身が他人の指摘や忠告を素直に受け取れないことがよくあるので私はそう思います。
それから
>破邪顕正しない者は、仏の敵である
とありますが、親鸞聖人はそのようなことを言われていたのでしょうか?私は聞いたことがありません。
たしか創価学会の方が破邪顕正(はじゃけんせい)
法華折伏などとよく言われていますが、礼拝の対象は異なりますが、言葉の理解としては
同じように理解してよろしいのでしょうか?
あと、
根拠を示し問題点を明確にします
一般人さん、有り難うございます。
「切り刻みてもあくかよ」などと、どこに言われているか、
とのお尋ねでしたので、まず。それにお答えします。
『蓮如上人御一代記聞書』243番
奥州に御一流の事を申しまぎらかし候人を聞召して、
前々住上人(蓮如上人)、奥州の浄祐を御覧候て、以ての
外御腹立候て、「さてさて開山聖人(親鸞聖人)の御流を
申しみだすことの浅ましさよ、憎さよ」と仰せられ候て、
御歯をくひ締められて、さて「切り刻みても飽くかよ、
飽くかよ」と仰せられ候。仏法を申紊す者をば、「一段
あさましぞ」と仰せ候と云々。
以上が原文です。
次に、今回、問題にしております仏青の機関誌「まこと」の
編集をしている宮崎寿洋氏の言動はどこが問題なのか、という点
が、あなたにはまだ明らかでないようなので、再度示しておき
ます。
釈尊は、
「一度、神を拝んだ者は、五百生の蛇身を受け、現世に
福報は更に来たらずして、後生は必ず三悪道に堕す」
と、神を拝むことを厳禁なされ、
親鸞聖人も、『一念多念証文』に、ハッキリと、
「聖道・外道におもむきて余行を修し余仏を念ず、吉日・良辰
をえらび、占相・祭祀をこのむものなり、これは外道なり、
これはひとえに自力をたのむものなり。」
聖道仏教の寺や、神社に参ることを、外道であると仰せです。
この宗祖親鸞聖人の教えを文章で明らかにすべき重責を
になっているのが、浄土真宗本願寺派であり、そこの仏教
青年連盟であり、その機関誌が「まこと」なのです。
その編集者が、「寺社巡りをしています」などと書いている
ことは、これで良いのですか、と指摘しているのです。
しかも、文脈をたどれば、寺社巡りは「悪い」という意味
では決してありません。すると、これを読んだ人が、さて、
どう思うでしょうか。果たしてこれで、上記のような親鸞聖人
の教えを、伝えることになるのでしょか。
それとも、その反対になるのでしょうか、という点を、
問題にしているのです。
(1)親鸞聖人の教え と
(2)「まこと」の文章 と、
この二つの事実を並べて、どうですか?と問うているのです。
決して、私の考えとか、感情とか、で申しているのでは
ありません。譬えていえば、裁判では、
(1)法律の条文 と
(2)ある人のやった行動 とを、
この二つを比較して、適法だ、違法だと決するようなものです。
親鸞聖人の教えに照らして、宮崎寿洋氏の言動は、問題ありや、
なしや、ということを、問題提起しているのです。
なお、創価学会の顕正(けんせい)などと、ここで論じて
いる問題とは、字は一緒でも、全く次元の違う話だということ
も、申し添えておきます。
「切り刻みてもあくかよ」などと、どこに言われているか、
とのお尋ねでしたので、まず。それにお答えします。
『蓮如上人御一代記聞書』243番
奥州に御一流の事を申しまぎらかし候人を聞召して、
前々住上人(蓮如上人)、奥州の浄祐を御覧候て、以ての
外御腹立候て、「さてさて開山聖人(親鸞聖人)の御流を
申しみだすことの浅ましさよ、憎さよ」と仰せられ候て、
御歯をくひ締められて、さて「切り刻みても飽くかよ、
飽くかよ」と仰せられ候。仏法を申紊す者をば、「一段
あさましぞ」と仰せ候と云々。
以上が原文です。
次に、今回、問題にしております仏青の機関誌「まこと」の
編集をしている宮崎寿洋氏の言動はどこが問題なのか、という点
が、あなたにはまだ明らかでないようなので、再度示しておき
ます。
釈尊は、
「一度、神を拝んだ者は、五百生の蛇身を受け、現世に
福報は更に来たらずして、後生は必ず三悪道に堕す」
と、神を拝むことを厳禁なされ、
親鸞聖人も、『一念多念証文』に、ハッキリと、
「聖道・外道におもむきて余行を修し余仏を念ず、吉日・良辰
をえらび、占相・祭祀をこのむものなり、これは外道なり、
これはひとえに自力をたのむものなり。」
聖道仏教の寺や、神社に参ることを、外道であると仰せです。
この宗祖親鸞聖人の教えを文章で明らかにすべき重責を
になっているのが、浄土真宗本願寺派であり、そこの仏教
青年連盟であり、その機関誌が「まこと」なのです。
その編集者が、「寺社巡りをしています」などと書いている
ことは、これで良いのですか、と指摘しているのです。
しかも、文脈をたどれば、寺社巡りは「悪い」という意味
では決してありません。すると、これを読んだ人が、さて、
どう思うでしょうか。果たしてこれで、上記のような親鸞聖人
の教えを、伝えることになるのでしょか。
それとも、その反対になるのでしょうか、という点を、
問題にしているのです。
(1)親鸞聖人の教え と
(2)「まこと」の文章 と、
この二つの事実を並べて、どうですか?と問うているのです。
決して、私の考えとか、感情とか、で申しているのでは
ありません。譬えていえば、裁判では、
(1)法律の条文 と
(2)ある人のやった行動 とを、
この二つを比較して、適法だ、違法だと決するようなものです。
親鸞聖人の教えに照らして、宮崎寿洋氏の言動は、問題ありや、
なしや、ということを、問題提起しているのです。
なお、創価学会の顕正(けんせい)などと、ここで論じて
いる問題とは、字は一緒でも、全く次元の違う話だということ
も、申し添えておきます。
真宗人としてどうでしょうか
管理人様
まず、私が問題にしていることとあなたが問題にしていることがずれています。
まず、その方が神社へ行ったことは親鸞聖人の教からすると間違っているかもしれません。
それは認めます。
私が問題にしているのは、あなたが言っているように親鸞聖人の教えからずれたことをした人に対して、悪口を言ったり、卑下したりしていいのでしょうかと言うことです。
もちろん間違ったことをしている人がいたなら教えてあげることは大切であると思います。
しかし切り刻んでもゆるさんなどど言われるに至っては、そういう人に対しては、社会的には障害罪と言われるようなことをしてもいいのでしょうか?
それから、あなたが根拠とされている破邪顕正についてですが、あなたが言うところのこの言葉の意味を教えてください。
私があなたの説明で感じたことは、間違っているひとを懲らしめてやることがいいことであるというような印象を受けますがいかがでしょうか?
もう一つ疑問ですが、破邪顕正と涅槃経に書いてあるとのことですが、なぜ涅槃経なのですか?
浄土真宗では、大無量寿・阿弥陀・観無量寿経の
三つが根本で大切なお経さまであるときいたことがありますが?
どんなお経に書いてあることも真実だから実行しなければならないと言われるのでしたら、法華経の修行もしなければならないことになるのではと
一般人的な思いが出てきます。
お釈迦様のお経は対機説法なのでどれも自分に当てはまるものではないと思いますが。
だからこそ、親鸞様のような方が、私らに必要なことをお経の中から選んで教えてくださっていると思います。
親鸞様が破邪顕正!?してこいと教えておられるのでしたら分かりますが。私は聞いたことが無いので、よろしかったら教えてください。
もしそれが無ければ、蓮如上人の御一代聞記書の文章だけを根拠とされてそのようなことを主張されるのはどうかと私は思います。
また聞記書とありますようにそのご本は蓮如さまが直接書かれたものではないのではないでしょうか?
以上私の疑問点です。私は教学的な知識はあまり無いので分かりやすい言葉で教えていただけたら幸いです。宜しくお願いします。
まず、私が問題にしていることとあなたが問題にしていることがずれています。
まず、その方が神社へ行ったことは親鸞聖人の教からすると間違っているかもしれません。
それは認めます。
私が問題にしているのは、あなたが言っているように親鸞聖人の教えからずれたことをした人に対して、悪口を言ったり、卑下したりしていいのでしょうかと言うことです。
もちろん間違ったことをしている人がいたなら教えてあげることは大切であると思います。
しかし切り刻んでもゆるさんなどど言われるに至っては、そういう人に対しては、社会的には障害罪と言われるようなことをしてもいいのでしょうか?
それから、あなたが根拠とされている破邪顕正についてですが、あなたが言うところのこの言葉の意味を教えてください。
私があなたの説明で感じたことは、間違っているひとを懲らしめてやることがいいことであるというような印象を受けますがいかがでしょうか?
もう一つ疑問ですが、破邪顕正と涅槃経に書いてあるとのことですが、なぜ涅槃経なのですか?
浄土真宗では、大無量寿・阿弥陀・観無量寿経の
三つが根本で大切なお経さまであるときいたことがありますが?
どんなお経に書いてあることも真実だから実行しなければならないと言われるのでしたら、法華経の修行もしなければならないことになるのではと
一般人的な思いが出てきます。
お釈迦様のお経は対機説法なのでどれも自分に当てはまるものではないと思いますが。
だからこそ、親鸞様のような方が、私らに必要なことをお経の中から選んで教えてくださっていると思います。
親鸞様が破邪顕正!?してこいと教えておられるのでしたら分かりますが。私は聞いたことが無いので、よろしかったら教えてください。
もしそれが無ければ、蓮如上人の御一代聞記書の文章だけを根拠とされてそのようなことを主張されるのはどうかと私は思います。
また聞記書とありますようにそのご本は蓮如さまが直接書かれたものではないのではないでしょうか?
以上私の疑問点です。私は教学的な知識はあまり無いので分かりやすい言葉で教えていただけたら幸いです。宜しくお願いします。
追加コメントです
管理人様
上の方の記事を読ませていただいたのですが、枝葉末節な内容に関してはお答えしていただけないかも知れないとのことでしたが、私の疑問は管理人様にとっては枝葉末節なのかもしれませんが、
お手数ですがお答えいただきたいです。
なぜなら、管理人様は、以前のコメントに『親鸞聖人の教えを乱す者は、切り刻んでも足らないと仰せです。
「ヤツ」呼ばわりくらいではないのです。
親鸞聖人、蓮如上人の破邪の厳しさに比べたら、まだまだ、私の
なんかは、生ぬるいと、思わずにおれません。』
と書いておられるからです。これは下手をすれば犯罪予告とも受けとられかねません。その方にとっても、私にとっても決して枝葉末節どころではないと思います。その語弊をはらすためにも是非とも疑問にお答えいただきますよう宜しくお願いします。
上の方の記事を読ませていただいたのですが、枝葉末節な内容に関してはお答えしていただけないかも知れないとのことでしたが、私の疑問は管理人様にとっては枝葉末節なのかもしれませんが、
お手数ですがお答えいただきたいです。
なぜなら、管理人様は、以前のコメントに『親鸞聖人の教えを乱す者は、切り刻んでも足らないと仰せです。
「ヤツ」呼ばわりくらいではないのです。
親鸞聖人、蓮如上人の破邪の厳しさに比べたら、まだまだ、私の
なんかは、生ぬるいと、思わずにおれません。』
と書いておられるからです。これは下手をすれば犯罪予告とも受けとられかねません。その方にとっても、私にとっても決して枝葉末節どころではないと思います。その語弊をはらすためにも是非とも疑問にお答えいただきますよう宜しくお願いします。
お分かり頂けたらそれで結構です
一般人さん、コメント有難うございます。「寺社巡りをすることは、親鸞聖人の教えに反する」という点は、
お分かり頂けたようで、私としては、それで結構です。当の宮崎君
にしても、「次から、親鸞聖人の教えに反することは、決してやら
ないようにしよう」と、思ってくれたら、それで結構です。
最大の問題点は、その点だったからです。
次に言葉遣いの件ですが、蓮如上人が「切り刻んでも飽くかよ」
とおっしゃっても、実際に誰かを切り刻んで「傷害」(が正しい
字ですよ)罪で捕まられたことなどありません。
切り刻んでも足らない、という比喩表現であって、実際に刃物で
切り刻むぞ、と脅迫されたのでもなければ、犯行予告などではない
ことは、明らかです。
もし、あなたのような言い方でいけば、
「あいつは、腹黒いやつだ」
と言ったら、腹に墨でも塗ってあるのか、と思い、
「くちばしも黄色いくせに」
と聞いたら、口に黄色いルージュなんかぬってないぞ、と思うよう
なものです。比喩表現、強調表現というものが、日本語にはあり
ますので、まあこんな初歩的なことは、これ以上言わなくても、
お分かりでしょう。
最後に、冒頭のことと同じくらい重要なお尋ねがありました。
それは、「涅槃経」のお言葉について、です。
真宗では、一切経の中で、特に浄土三部経を大切にしますが、
だからといって、その他の経典に意味がないとか、不要だとか
思っては、とんでもないことです。
いずれも、お釈迦様のご教導であり、謹んで聞かせて頂かねば
なりません。
特に、涅槃経は、お釈迦様最後のご説法といわれ、先述した
「破邪顕正せよ」とのお言葉は、お釈迦様のご遺訓といわれる
大切なご教導です。
謹んで拝聴し、実行しなければならないのは当然です。
「では、法華経の修行をしなければならないのか」と言われ
ますが、詳細はいま省略しますが、法華経に説かれていること
は、ひとことで言えば、
「廃悪修善」
悪をつつしみ、善をやりなさい、ということです。これは、
法華経だけでなく、それまでの四十余年間説き続けてこられた
教えです。もちろん、浄土三部経でも、善を勧めておられます。
因果の道理にしたがって、私たちも、廃悪修善につとめなけ
ればならないのは、当然のことでしょう。
「それは、浄土三部経以外のお経だから、聞く必要ない」とは、
とんでもないことであったと、賢明な貴方ならば、もうお気づき
になったでしょう。
親鸞聖人、『教行信証』に、
「外教邪偽の異執を教戒せば」
外道、邪教、誤った信仰を、厳しく正す、とおっしゃっています。
さらに、『後序』には、
「然るに諸寺の釈門、教に昏くして、真仮の門戸を知らず、
洛都の儒林、行に迷うて、邪正の道路を弁うること無し。」
日本中の寺院の僧侶たちはみな、仏教にくらく、何が真実で
何が方便か、まったくわかっていない。京都の儒教の学者たち
も、何が正で何が邪か、知らない者ばかりだと、痛烈に批判して
おられます。
涅槃経の遺訓にしたがって、徹底的に破邪顕正していかれた
方が、宗祖親鸞聖人でありました。
私たちも、ひたすら祖師のみあとをしたい、仏法者の使命を
果たしていきたいと思います。
お分かり頂けたようで、私としては、それで結構です。当の宮崎君
にしても、「次から、親鸞聖人の教えに反することは、決してやら
ないようにしよう」と、思ってくれたら、それで結構です。
最大の問題点は、その点だったからです。
次に言葉遣いの件ですが、蓮如上人が「切り刻んでも飽くかよ」
とおっしゃっても、実際に誰かを切り刻んで「傷害」(が正しい
字ですよ)罪で捕まられたことなどありません。
切り刻んでも足らない、という比喩表現であって、実際に刃物で
切り刻むぞ、と脅迫されたのでもなければ、犯行予告などではない
ことは、明らかです。
もし、あなたのような言い方でいけば、
「あいつは、腹黒いやつだ」
と言ったら、腹に墨でも塗ってあるのか、と思い、
「くちばしも黄色いくせに」
と聞いたら、口に黄色いルージュなんかぬってないぞ、と思うよう
なものです。比喩表現、強調表現というものが、日本語にはあり
ますので、まあこんな初歩的なことは、これ以上言わなくても、
お分かりでしょう。
最後に、冒頭のことと同じくらい重要なお尋ねがありました。
それは、「涅槃経」のお言葉について、です。
真宗では、一切経の中で、特に浄土三部経を大切にしますが、
だからといって、その他の経典に意味がないとか、不要だとか
思っては、とんでもないことです。
いずれも、お釈迦様のご教導であり、謹んで聞かせて頂かねば
なりません。
特に、涅槃経は、お釈迦様最後のご説法といわれ、先述した
「破邪顕正せよ」とのお言葉は、お釈迦様のご遺訓といわれる
大切なご教導です。
謹んで拝聴し、実行しなければならないのは当然です。
「では、法華経の修行をしなければならないのか」と言われ
ますが、詳細はいま省略しますが、法華経に説かれていること
は、ひとことで言えば、
「廃悪修善」
悪をつつしみ、善をやりなさい、ということです。これは、
法華経だけでなく、それまでの四十余年間説き続けてこられた
教えです。もちろん、浄土三部経でも、善を勧めておられます。
因果の道理にしたがって、私たちも、廃悪修善につとめなけ
ればならないのは、当然のことでしょう。
「それは、浄土三部経以外のお経だから、聞く必要ない」とは、
とんでもないことであったと、賢明な貴方ならば、もうお気づき
になったでしょう。
親鸞聖人、『教行信証』に、
「外教邪偽の異執を教戒せば」
外道、邪教、誤った信仰を、厳しく正す、とおっしゃっています。
さらに、『後序』には、
「然るに諸寺の釈門、教に昏くして、真仮の門戸を知らず、
洛都の儒林、行に迷うて、邪正の道路を弁うること無し。」
日本中の寺院の僧侶たちはみな、仏教にくらく、何が真実で
何が方便か、まったくわかっていない。京都の儒教の学者たち
も、何が正で何が邪か、知らない者ばかりだと、痛烈に批判して
おられます。
涅槃経の遺訓にしたがって、徹底的に破邪顕正していかれた
方が、宗祖親鸞聖人でありました。
私たちも、ひたすら祖師のみあとをしたい、仏法者の使命を
果たしていきたいと思います。