世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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先に「となみ詰所」というテレビ番組のことを書きました。
存続の危機にある「詰所」は、すでに5軒しか残っていない
そうですが、そもそも詰所とは何か。
この番組で紹介されていましたが、江戸後期、東本願寺の
御堂は、4度の焼失を経験しています。しかしそのたびに、
愛山護法の門徒衆の寄進と、身施ともいうべき献身的協力に
よって、御堂は再建されたのでした。
その工事に、手弁当でかけつけた各地の門徒衆が、寝泊り
するために建てられ利用したのが、各地の詰所でした。
その後、もちろん、本山参拝の門徒の宿泊所として、活況
を呈したわけですが、聞法心は枯れ、宗門が廃れていくにつれ
詰所も、経営難となり、閉鎖のやむなきに至ったのでした。
しかし、4度焼失してもなお、再建されたとは、往時の
親鸞学徒の心意気たるや、すさまじいものと、驚嘆せずに
おれません。
存続の危機にある「詰所」は、すでに5軒しか残っていない
そうですが、そもそも詰所とは何か。
この番組で紹介されていましたが、江戸後期、東本願寺の
御堂は、4度の焼失を経験しています。しかしそのたびに、
愛山護法の門徒衆の寄進と、身施ともいうべき献身的協力に
よって、御堂は再建されたのでした。
その工事に、手弁当でかけつけた各地の門徒衆が、寝泊り
するために建てられ利用したのが、各地の詰所でした。
その後、もちろん、本山参拝の門徒の宿泊所として、活況
を呈したわけですが、聞法心は枯れ、宗門が廃れていくにつれ
詰所も、経営難となり、閉鎖のやむなきに至ったのでした。
しかし、4度焼失してもなお、再建されたとは、往時の
親鸞学徒の心意気たるや、すさまじいものと、驚嘆せずに
おれません。
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親鸞学徒
「そんな言葉、どこにもありません」とのこと。
自分が勉強不足で知らないからと言って、「そんな言葉はない」と断ずるとは、
軽率というか、早とちりというか。
戦前から、使われていた言葉です。
「どこで」「誰が」そんな質問は、まずその当時の書物等をよくお調べになって
からになされたほうがよいと思いますよ。
「親鸞学徒」とは、
親鸞聖人の教えを学び、知り、伝えんとする人のことです。
門徒ではあっても、親鸞学徒ではない、といわれるのならば、
それはまた、真の「御門徒」とも言えませんね。
他にも、たくさんのコメントをいただいた「しんちゃん」さんですが、
個別の問題提起については、それぞれのところに再コメントしておきましたので、
どうぞご覧ください。
そして、ご意見があれば、どうぞ遠慮なくお聞かせください。
お待ちしております。
自分が勉強不足で知らないからと言って、「そんな言葉はない」と断ずるとは、
軽率というか、早とちりというか。
戦前から、使われていた言葉です。
「どこで」「誰が」そんな質問は、まずその当時の書物等をよくお調べになって
からになされたほうがよいと思いますよ。
「親鸞学徒」とは、
親鸞聖人の教えを学び、知り、伝えんとする人のことです。
門徒ではあっても、親鸞学徒ではない、といわれるのならば、
それはまた、真の「御門徒」とも言えませんね。
他にも、たくさんのコメントをいただいた「しんちゃん」さんですが、
個別の問題提起については、それぞれのところに再コメントしておきましたので、
どうぞご覧ください。
そして、ご意見があれば、どうぞ遠慮なくお聞かせください。
お待ちしております。
無題
勉強不足で申し訳ありません。
私の知るところでは、華光会の増井悟朗氏が、学生に「親鸞学徒」とお使いになっているようです。
それ以前にお使いになった人がおられますか。
いずれにしても、お聖教にはない言葉ですから、「ありません」と申し上げました。
私の知るところでは、華光会の増井悟朗氏が、学生に「親鸞学徒」とお使いになっているようです。
それ以前にお使いになった人がおられますか。
いずれにしても、お聖教にはない言葉ですから、「ありません」と申し上げました。
親鸞学徒
お聖教にない言葉を使ってはならない、とは誰もおっしゃっていません。
もしそうならば、現代語は、一切使えなくなってしまうでしょう。
無茶な話です。
学徒とは、「学ぶ人」ということですから、親鸞聖人のみ教えを学び、伝えんとする
人のことを、「親鸞学徒」と言われるようになったのだと思います。
蓮如上人は、ご自身の考えは一切はさまず、常に「聖人一流のご勧化のおもむきは」
「そもそも親鸞聖人の一流においては」と親鸞聖人の教えを伝えることに生涯を
捧げられました。
私たちも、自分の考えを述べるのではなく、ひたすら聖人の教えをお伝えする、
蓮如上人のなされたように、させていただきたい、と思います。
「しんちゃん」さんは、どうお考えか分かりませんが、私は生涯、「親鸞学徒」で
ありたいと思っております。
もしそうならば、現代語は、一切使えなくなってしまうでしょう。
無茶な話です。
学徒とは、「学ぶ人」ということですから、親鸞聖人のみ教えを学び、伝えんとする
人のことを、「親鸞学徒」と言われるようになったのだと思います。
蓮如上人は、ご自身の考えは一切はさまず、常に「聖人一流のご勧化のおもむきは」
「そもそも親鸞聖人の一流においては」と親鸞聖人の教えを伝えることに生涯を
捧げられました。
私たちも、自分の考えを述べるのではなく、ひたすら聖人の教えをお伝えする、
蓮如上人のなされたように、させていただきたい、と思います。
「しんちゃん」さんは、どうお考えか分かりませんが、私は生涯、「親鸞学徒」で
ありたいと思っております。