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世界の光・親鸞聖人の教えを世界に! 夢は大きく、現状には厳しい目を!
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葬送ジャーナリストの碑文谷さんが、11月27日付けの中日新聞に

寄稿しておられた。葬式仏教の崩壊を、伝えておられる。

象徴的な、こんな話が紹介されていた。

流通大手のイオン(民主党岡田幹事長のところの、あのお店)が

葬送事業に参入して、「明朗会計」を宣伝文句に、僧侶への

お布施の額の目安表まで作成した。

これには、全日本仏教会が猛反発。抗議を受けて、イオンは

目安表を撤廃した。

しかし、目安表を望んでいた顧客が多かったことも事実だ。

・・・・という内容であった。

つまりは、葬儀に対して、一つの料金として、知りたかったので

業者としては、顧客のニーズに合わせて、作成したのであろう。

しかし、本来のお布施は、料金というようなこのとは全く異なる。

法施に対する、財施であるから、あくまでもお気持ちである。

一時間の講演に対して何万円というような筋合いのものではない。


★では、なぜ、一般の皆さんは「料金」と理解しているのだろう。

当ブログは、宗教ブログだから、この点に論考を加えたい。

一定のサービスを享受した人は、一定の料金・代金を支払う。

「代金」つまり、何かをしてもらった「代わり」である。

「料金」「代金」の場合、一定のものである。

では、そのサービスに大変満足したから、少し余計に渡したい、

そんな時にはどうするか。

これがいわゆる「チップ」とか「心づけ」というものだ。

飲食業、サービス業などでも、一般化している。

そこには、「定額」というものはない。思い切りはずむ人もあり、

ほんの少しだけ、という人もある。それが「チップ」だ。

しかし、決まったものではないから、「満足しなかった」という

人は、当然、払わない。支払うのは、あらかじめ知らされていた

「料金」「代金」だけである。業者も、もらえなかったからと

いって、請求はできない。(この点、あらかじめ、「サービス料

込み料金」などというのは、また別の次元の問題であるが)

つまりは、そのサービスに「満足した」なら出すし、「不満である」

ならば出さない。

今日の葬儀に、あらかじめ示された「料金」「代金」は払うが、

それ以上、出したくない、と一般の方が思うのは、僧侶の提供した

ものに「不満だから」ではないか。何の感動もなく、有難くも

思わない、あらかじめ決められたものを、淡々とこなしただけで、

それ以上のものを、何もいただけた思わない。

さすれば、「お気持ちで」といっても、全く出されないのは当然だ。

★「もっと提言をせよ」という、この前の方のアドバイスに従い、

ここからは、そういうことを、書きます。

法事、葬儀は、法を伝える場である。聞法の場である。

日ごろ忘れていた、命の無常を、近親者の死を通して知らされた

人々に、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと

皆もって、そらごと、たわごと、真実あることなきに、ただ

念仏のみぞ、まことにておわします」の真実を、お伝えする。

後生の一大事に目を向け、弥陀の本願を聞くご縁とするならば、

単なる形式、儀式の場が、法味愛楽の場と変わるであろう。

無上甚深の法を聞かせて頂いた、報恩感謝のお志が、お布施であり、

ならばこそ、「目安表などというものではない」と、抗議がなされた

のは、至極当然なのである。

 これは、法名・戒名についてもいえることだが、長文となったので

またの機会にしたいと思う。

 きょうはこれまで。
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 本願寺派布教使、大阪府瑞松寺の野村康治住職が、

またまた「みほとけとともに 西本願寺の時間」で

こんなこと、言っていました。

 親鸞聖人と、ある人との問答が、書物に記されている、

との語りだしで、


「親鸞聖人『亡くなった人にあいたければ、お浄土に訪ねて

      いきなさい』

 ある人『お浄土へ生まれるにはどうすればよいのですか』

 親鸞聖人『お念仏一つですよ』」


 さて、どの書物か、ということは住職サン、言わなかった。

 死んだ人は、全員、弥陀の浄土に往っている、とでも、

住職サン、言いたいのか。念仏称えれば、誰でもお浄土へ

往ける、と、称名正因の邪義を押し立てるのか。


 先日、いただいたメールで「批判ばかりでなく、建設的な

意見を」と親切にアドバイスくだされた方があったので、

以下、それを書きます。


 弥陀の浄土に生まれるには、どうすればよいのか。

 親鸞聖人は、こう仰せである。

「涅槃の真因は唯信心を以てす。」(教行信証信巻)

「弥陀如来廻向の真実信心を阿耨菩提の因とすべしとなり。」
                   (尊号真像銘文)

 近くは、正信偈にも、明らかに仰せである。

「速入寂静無為楽 必以信心為能入」

 ゆえに、蓮如上人も仰せである。

「一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人

 ながら、みな浄土に往生すべき事更に疑なし。」(御文章)

お浄土に生まれる因は、真実信心、唯一つであると明らかである。

 これを「信心正因」といわれ、親鸞聖人の教えは「唯信独達」と

言われるのだ。

 この真宗の肝要を、なぜ言えぬのか?

 
 すでにして本願寺に、この肝要を知る者がいないからと思わざる

をえない。
今回は、あえて強い言葉で書きます。

仏教では、迷信だと断ぜられている「日の善悪」を、

なぜ本願寺は「迷信だ」と断言できないのか。

そこまで腰抜けになってしまったのか。

あきれ果てるのは、これだ。

本願寺派布教使・野村康治・大阪府瑞松寺住職が

しゃべった「みほとけとともに 西本願寺の時間」である。

「日の善し悪しに従えば、悪いことが起こらないのでしょうか」

というテーマについて、語り始めた。

答えは・・・結局、最後まで語られなかった。

「仏滅に結婚式をあげると不縁になる」

「友引に葬式を出すと死者が連れに来る」

「三隣亡に建前をすると災いが来る」

具体的に、これらの例を挙げた。

何もためらうことはない。

「一切、迷信です」と一刀両断すればよい。

ところが、最後まで、それが言えない。

いつしか話は、臨終の相と往生との話に変わっていく。

さらには、お悔やみの言葉のかけ方に、流れていく。

テーマである「日の善悪」には、ついに何の答えも出なかった。

この腰抜け、と断ずるのは、以下のご教導を知るからである。

=======================================================
御文章一帖目第九通

 仏法を修行せんひとは、念仏者にかぎらず、物さのみいむ
べからずと、あきらかに諸経の文にもあまたみえたり。まず
『涅槃経』にのたまわく、「如来法中 無有撰択 吉日良辰」
といえり。この文のこころは、如来の法のなかに吉日良辰を
えらぶことなし
となり。また『般舟経』にのたま
わく、「優婆夷、聞是三昧欲学者、乃至 自帰命仏帰命法
帰命比丘僧 不得事餘道、不得拝於天、不得祠鬼神、不得
視吉良日、已上」といえり。この文のこころは、優婆夷この
三昧をききてまなばんと欲せんものは、みずから仏に帰命し、
法に帰命せよ、比丘僧に帰命せよ、餘道につかうることを
えざれ、天を拝することをえざれ、鬼神をまつることをえ
ざれ、吉良日をみることをえざれといえり。
 かくのごとくの経文どもこれありといえども、この分を
いだすなり。ことに念仏行者はかれらにつかうべからざる
ようにみえたり。よくよくこころうべし。
=======================================================

数々の経典の根拠を示されて、日の善悪など、迷信だ、信じては

ならないと厳しく戒めておられる。

 にもかかわらず、まさにその「日の善し悪し」をテーマに

掲げながら、何をごまかし、逃げているのか。

 迷信を迷信と言えない。

 外道を外道と言えない。

 ただちに浄土真宗の看板を返上されたし!
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