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世界の光・親鸞聖人の教えを世界に! 夢は大きく、現状には厳しい目を!
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9日から16日までの8日間、西本願寺では、親鸞聖人報恩講を厳修。

京都新聞が、報じていました。紹介しましょう。

<親鸞の遺徳しのぶ 西本願寺で報恩講始まる

  鎌倉時代に浄土真宗を開いた親鸞の750回忌の大法要を

 今春から営む浄土真宗本願寺派本山・西本願寺(京都市下京

 区)で9日、親鸞の遺徳をしのぶ報恩講が始まった。

  初日は、約2300人が御影(ごえい)堂に詰めかけ、午後

 2時ごろ、大谷光真門主が親鸞の座像を安置する厨子(ずし)

 の扉を開けて報恩講の始まりを告げると、参列者たちが手を合

 わせて念仏を唱えた。続いて逮夜(たいや)法要が営まれ、門

 主後継者の光淳新門が導師を務め、親鸞が作った詩「念仏正信

 偈(しょうしんげ)」を唱えた。

  報恩講は同派最大の年間行事。浄土真宗の他宗派は親鸞の命

 日を11月28日としているが、本願寺派は太陽暦に直して1月16

 日を命日とし、8日間の法要を営む。期間中、約7万人の参拝

 を見込んでいる。(箕浦成克)>

9日といえば、日曜日である。しかも宗祖親鸞聖人報恩講の初日、

なのに、参詣者は「2300人」とのこと。

もちろん、人数だけでははかれませんが、御堂にあふれんばかりの

参詣者を集めた、かつての報恩講を知る人たちにとっては、何とも

さびしいかぎりでしょう。
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今朝の中日新聞に、「親鸞展」の全面広告が掲載されていました。

主催は中日新聞、展示物は、本願寺が提供するようです。

しかし、その説明を読んで、ビックリ!

「阿弥陀如来立像」があり、まあそれは仕方ないにしても、

この説明文は、大問題であります!

「本願寺の渉成園内、園林堂の本尊。

 手の形は臨終の際、迎えにやってくる
 
 ことを示す『来迎印』である」

トンでもない話です。

 浄土真宗は、平生業成、往生の業事は、平生に成就するので、

臨終の来迎を待ち望むことなどない。ゆえに「不来迎」の教えである。

 親鸞聖人『末灯抄』に、

「来迎は諸行往生にあり。真實信心の行人は、摂取不捨のゆえに、

 正定聚に住す。正定聚に住するがゆえに、かならず滅度にいたる。

 かるがゆえに臨終まつことなし。来迎たのむことなし」(末燈鈔意)

とハッキリ仰せです。また蓮如上人も、

「不来迎のことも、「一念発起住正定聚」と沙汰せられそうろう

 ときは、さらに来迎を期しそうろうべきこともなきなり。その

 ゆえは、来迎を期するなんどもうすことは、諸行の機にとりて

 のことなり。真實信心の行者は、一念発起するところにて、や

 がて摂取不捨の光益にあずかるときは、来迎までもなきなりと

 しらるるなり。」(1帖4通)

と明言されています。

 にもかかわらず、「来迎」などと、よくも言ったものです。

 これは、ただちに訂正さるべきと思いますが。
「聞かずにはおれない私」と題して、福岡県眞浄寺の住職、

三好 慶祐(みよし けいすけ)氏が、「みほとけとともに」

で語っていました。

「仏法は聴聞に極まる」と蓮如上人のお言葉を挙げたまでは

よかったとしても、その「聴聞」の解説が、これでは・・・。

この際ですから、三好氏の明らかにできなかった点を、記して

おきましょう。ご参考まで。

──────────────────────────

 阿弥陀仏のお誓いは「聞其名号、信心歓喜」とあります

ように、聞いて信ずる者を助けるという御約束ですから、

聞くということが、阿弥陀仏に救われるに最も大切なこと

なのです。

 故に、親鸞聖人も蓮如上人も「仏法は聴聞に極まる」と

まで道破なされています。すでに聴聞といわれていますよ

うに、聴もきく、聞もきくということですが、仏法では、

聴というきき方と、聞というきき方とを厳然と区別されて

いることを、よく承知していなければなりません。

 先ず、聴というきき方は、ただ耳からきいて頭で合点し

ているようなきき方を言います。2+2は4、4+4は8、

というように、きいて納得している状態をいいます。

 庄松同行が「合点ゆかずば合点ゆくまでききなされ、

きけば合点のゆく教え、合点したのは信ではないぞ、

それは知ったの覚えたの」と言っていますが、このような

きき方を聴といいます。

 このようなきき方はいくらでもできますが、このような

きき方をいくら重ねていても阿弥陀仏の救いにはあわれま

せん。

「聴聞ということをば何と心得られて候やらん。ただ耳に

ききたるばかりは聴聞にてはなく候。その故は千万のこと

を耳にきき候とも、信を獲候わずば、きかぬにてあるべく

候。信を獲候わずは報土往生かなうまじく候」

と、蓮如上人仰せになっているのはこのことなのです。

 耳にいくら千回万回の法話をきいても、それでは聴の

きき方ですから助からないのです。

 では、聞というのはどんなきき方かと申しますと、

心のドン底へ阿弥陀仏のジカの呼び声が響き亘るきき方

をいいます。

 聴は上辺の心が善知識の御教化をきいて合点して有り

難がっているきき方ですが、聞は下の心のドン底に、

阿弥陀仏の呼び声がきこえた時のきき方をいうのです。

 だから聴は何十回何百回でもありますが、聞という

きき方は一生にたった一度キリしかありません。

 親鸞聖人はこれを、

「回心ということ一期に、ただ一度あるべし」

と仰有っています。

 その一度も、ある人で一度であって、ない人がほと

んどです。

 この阿弥陀仏の御声が心のドン底へ、ジカに聞こえた

一念で大安心大満足の境地におどり出させて頂きます

から、この時を聞即信というのです。

 即という字は、時をへだてず、処をもへだてずという

ことですから、阿弥陀仏の呼び声が聞こえた、その時、

その処で信心歓喜と大安心し、絶対の幸福にさせて頂ける

ということが聞即信といわれるのです。

 庄松同行はこれを「合点せよとは口では言えど、不思議

不思議の外はない」と言っています。

 六連島のおかる同行は「たった一声聞いたのが、その

一声が千人力、四の五の言うたは昔のことよ、そのまま

来いの勅命に、いかなるおかるも頭が下がる」と、おどり

上がって喜んでいます。

 この驚天動地の一念の体験を聞即信というのですから、

この阿弥陀仏の御声をジカに聞くまで、聞きぬきましょう。

──────────────────────────

批判ばかりでなく、建設的な意見をとのことでしたので、

以上、書きおきます。
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