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 先日、宗報の話題を書いたら、ある人が、昨年のだけど
こんな話題がありましたよ、と教えてくれた。例の北陸の
S会と、宿善論争を引き起こす発端を作ってしまった紅楳
英顕司教が、6月号に、こんなことを書いていたのだ。

「わが身に信がなければ、人に信をとらすことはできない
のであり、自信教人信ということも、まずわが身が信心決
定の人でなければならないのであります。
 信心決定者の救済体験の事実からの情熱によってこそ、
教学伝道の振興がなされていくものと思います。
 信心未決定者の救済体験の事実なき教学伝道では、これ
からの社会の人々の心には響かないことでありましょう」

 ああ、またこんなこと書いたら、S会ならずとも、真宗
を少しでも学んだ人からは、鋭く攻撃されちゃいますよ。
 冒頭の一文でも、「じゃあ、わが身に信があれば、人に
信をとらすことができるのですか」と言われてしまいます。
 また、後段についても、「では、信心未決定者は、布教
伝道してはならないのか」と、切り込まれます。

 ここに掲載していない全文を見渡せば、もうツッコミ
どころ満載の、論文で、やはり、勧学ではなく、司教で
とどまっているのも、道理だな、と思います。

 いや、待てよ。
 これは、「私は、信心未決定者だから、人々の心に響く
伝道はできないんですよ」と、言いわけしているのか?
 ああ、そういうことなら、この熱意のカケラも感じない
論文も、うなずけますか。
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無題
「では、信心未決定者は、布教伝道してはならないのか」

まずは、ご自身の後生の一大事でしょうね。
しんちゃん 2008/09/13(Sat)15:13:41 編集
「まずは」とは?
「しんちゃん」さん、コメント有難うございます。

「信心未決定者は、まずは、ご自身の後生の一大事でしょうね」
という文脈と読みました。

この「まずは」という考え方について、本文で取り上げたのですよ。
お分かりでなかったでしょうか。

まずは自身が信心決定しなければ、人に布教はできない、というようなことを
言っていてら、どうなりますか。

「真なる者は、はなはだもって難く、実なる者は、はなはだもってまれなり。
 偽なる者は、はなはだもって多く、虚なる者は、はなはだもって滋し」
       (教行信証化土巻)

 未決定の者が圧倒的に多いのです。そういう人は布教してはならぬ、という
ことになれば、いったい誰が布教できるというのですか。
 本派では、幾人あると思われますか。

 そういう消極的なことを言わずに、未信の者も、知らされた限りを精一杯、
有縁の方に、お伝えしていくことが、悪いことなのでしょうか。
 そこのところを、問題提起しているのです。
管理人です 2008/09/13(Sat)18:30:03 編集
無題
> 未決定の者が圧倒的に多いのです。そういう人は布教してはならぬ、ということになれば、いったい誰が布教できるというのですか。
> そういう消極的なことを言わずに、未信の者も、知らされた限りを精一杯、有縁の方に、お伝えしていくことが、悪いことなのでしょうか。

紅楳氏は一言も「布教してはならぬ」とも「悪いこと」とも言ってないですね。

宗報は僧侶向けの機関紙。僧侶なら当然布教している訳で、そういった人たちに対して、まず自分の信心はどうか、それを問わなければといわれているわけです。善導が自信教人信と仰ったのもそういう御心ではありませんか?

どう悪意に解釈したらこのような文章が書けるのか、理解に苦しみます。管理人殿は信を得ておられるのですか?そして布教に邁進しておられるのでしょうか?
大派僧侶 2008/12/19(Fri)13:49:01 編集
大悲を伝えよう
> 紅楳氏は一言も「布教してはならぬ」とも
>「悪いこと」とも言ってないですね。

はいはい。そういう逃げ道を作ってあることぐらい、
ちゃんと分かっています。だからズルイのです。
じゃあ、積極的に大衆の中に飛び込んで布教している!
とでも言われるのでしょうか。
そこを、問題としているのです。

>宗報は僧侶向けの機関紙。僧侶なら当然布教して
>いる訳で、

その認識が、誤っているのです。あれで布教している
と胸を張られるのですか。
ならば、本派だけでも幾多の布教使がいるのに、
この教線の衰退ぶりは、どうですか。
まして、僧侶全体にいたっては、一体どれだけの時間を
布教に費やしているのですか。

かつて、香樹院師は、七軒の御門徒を如来聖人より
お預かりして、その教化がなかなかできずに悩んでいる
と仰せでありました。
にもかかわらず、昨今の住職は、葬式法事だけでは
食べていけないと、役所や学校などに勤めるかたわら、
空いた時間に御門徒宅へ読経に立ち寄るだけであって、
そこで満足な法話を聞けたためしがないと、全国の
門信徒の方々が嘆いておられるのが、あなたがたの
耳には届いていませんか。

私は、公開講座、聞法のつどい、などざまざまに銘打って、
一般の会場にも出かけて、法座を開いておりますが、
そこに来られた方々が言われるのです。
「どうして、僧侶は、もっと積極的に布教して歩かないのか」と。

聖人の教えを求める、この切実な声を耳にするとき、
とても、「僧侶なら、当然布教している」などとは、
おこがましくて言えないのです。

>そういった人たちに対して、まず自分の信心はどうか、
>それを問わなければといわれているわけです。
>善導が自信教人信と仰ったのもそういう御心ではありませんか?

善導大師はこう仰せです。
「自信教人信
 難中転更難
 大悲伝普化
 真成報仏恩」

  自ら信じ、人に教えて信ぜしめることは
  難きが中に、うたたさらに難し
  大悲を伝えて、普く化す
  真に仏恩報ずるに成る

大悲を伝えることこそ、真の仏恩報謝になるとの仰せです。
大悲を伝える、すなわち布教に立ち上がるということです。
ともに大悲を伝えようではないか、と、私も
言いたくて、
このささやかなブログで、訴えているのです。

この真意に賛同してくださるならば、大いに、皆さんの
おられる、その町で、その場所から、立ち上がってください。

学者とくだらぬ議論をしているときではないのです。
管理人です 2008/12/20(Sat)10:53:00 編集
無題
>はいはい。そういう逃げ道を作ってあることぐらい、
>ちゃんと分かっています。だからズルイのです。

やれやれ。貴方の発言の決め付けを突いたらそれが「逃げ道」ですか。結局紅媒氏は貴方の言うようなことは言っていないということで宜しいですね。

>じゃあ、積極的に大衆の中に飛び込んで布教している!
>とでも言われるのでしょうか。

紅媒氏(ちなみに貴方は「紅梅」と書いておられますが、「紅媒」です。貴方にとって人の名前なんてどうでもいいのかもしれませんが、気をつけたほうが良いですよ。)は私の知る限り、積極的に布教活動をしている方だと思いますよ。僧侶への研修会や、大学での公開講座、各寺院での布教と飛び回っておられます。貴方は紅媒氏以上のことをしておられるのかな?

>にもかかわらず、昨今の住職は、葬式法事だけでは
>食べていけないと、役所や学校などに勤めるかたわら、
>空いた時間に御門徒宅へ読経に立ち寄るだけであって、
>そこで満足な法話を聞けたためしがないと、全国の
>門信徒の方々が嘆いておられるのが、あなたがたの
>耳には届いていませんか。

貴方はどういう立場のお方ですか?本派の僧侶の方と思っていましたが。
今は教師も公務員も住職と兼業している者は殆どいません。どこもそういう形での兼業が難しくなっていますので。
私たちならば当然知っているようなことを知らないのか、あるいは知っていても自分の都合の良いように決め付けているのか。

貴方と同じような理由で伝統教派を否定していた真宗系のカルト団体は、自分たちは布教に邁進していると自称しながら、不要な箱物を作りまくり、そのために集めた金の使途を公表できないばかりか、一方では祖師のご教導に反するこんなことまでしているそうです。

http://jp.youtube.com/watch?v=7YOzsFg2ZQk

この団体の関連会社の冊子が、最近自坊にも送られて来まして、聞けば他のお寺にも随分と届けられているそうです。貴方のところには来ましたか?
大派僧侶 2008/12/21(Sun)09:57:27 編集
訂正 および 論点を明確に
大谷派僧侶、じゃなくて、大派僧侶さん、
有り難うございます。本文と、コメントで
お名前を訂正しておきます。
「紅楳」が正しいお名前です。文字変換の誤りを訂正させていただきます。

次に、氏のご発言でも、私の拙文も、そしてコメントも、
言いたいことは
「信心未決定者の布教伝道」
について、であります。

大谷派、じゃなかった、大派僧侶さんは、
信心未決定者も、大いに布教すべきとお考えか。
それとも、信心未決定者には、心にひびく布教伝道など
できないから、まず信心決定しなさい。布教はそれからです、
というご意見か。

ここひとつ明らかにしてから、その他の問題に順次進みましょう。
管理人です 2008/12/22(Mon)09:05:48 編集
無題
信心未決定者でも真宗の教えとであったからには、布教しなければならないのは当然のことでは?

私の知人でも、毎年北海道で熱心に布教に回っている副住職がいますが、自ら「未信であるが有縁の人に法のすばらしさを説きたい」と言って出かけています。私は立派だと思います。

しかし、蓮如が言うように「信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われはものをもたずしてひとにものをとらすべきというの心なり、人承引あるべからず」というのも事実であるから、自らの信心を決定する事を急がなければならないのは当然のことです。

ただ、仏道は自利利他の教えですから、未信の者が布教する事が自らの信仰の妨げになるはずがありませんから、大いに伝道をしなければならないのです。

そんな事がこのコメントで私が指摘した趣旨ではないはずですが。貴方は紅楳氏(失礼。私も間違っていました)の文章を、あたかも未信の人は布教してはならないかのように書いていると批判したことを問題にしたのですが。

私の書き方がまずかったのならば反省いたします。
大派僧侶 2008/12/23(Tue)10:40:47 編集
大いに布教しましょう
大派僧侶さん、コメント有難うございました。

お互い、「信、未信を問わず、親鸞聖人の教えを知らされた者は
大いに布教しましょう」ということで一致していると思います。

そのように、努めていきましょう。

(なお、その後で、いただいたコメントが、文字化けで読め
ませんでした。ですが、一番の論点である上記の点について
合意しましたので、この項は、いったんここまでとさせて
いただきます。有難うございました)
管理人です 2008/12/24(Wed)09:09:33 編集
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