世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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本派の「宗報」って、はたしてどのくらいの人に読まれている
ものでしょう?
存在も知らない!なんて、言わないでね。
5月号で、大遠忌を前に、山田行雄勧学がお書きになっていた
一文を、皆さん、読まれました?
「信の上の称名」について、力の入った論文で、現代において、
称名念仏の声の少ないことを嘆かれたものです。
なるほど、お念仏の少ないことは、多くの心ある派内の方々が
感じておられるとおりでしょう。
山田勧学は最後に、「大遠忌の勝縁にあっても、念仏申されぬ
人は、いつ申すのですか」と言われ、「御堂をお念仏で満たしま
しょう」と呼びかけておられます。
まこと、そうあってもらいたいものです。
が、しかし、山田勧学も仰せのとおり、真宗でいわれるお念仏
とは、「信の上の称名」であります。
では、その信心を、弥陀より賜るには、どうすればよいのか。
ここが全く明示されていないのでは、いかんともしがたい。
平たくいえば、御馳走食べて、満腹すれば、誰しも、心から、
「ごちそうさまでした!」の謝辞が出ましょうが、では、そんな
御馳走、どこにあるのか?どうすれば、頂けるのか?かんじんの
そこが明らかにならないまま、ただ「ごちそうさま、と言いなさ
い!」と強制されても、そりゃ、口先だけの言葉しか出ません。
ぜひとも、宗門の内外に向けて、最も大切な「信心」について
どなたか、明らかにして頂けませんか。
信心の行者、繁昌ありてこそ、お念仏の声は、御堂の内外に、
満ちることでありましょう。
ものでしょう?
存在も知らない!なんて、言わないでね。
5月号で、大遠忌を前に、山田行雄勧学がお書きになっていた
一文を、皆さん、読まれました?
「信の上の称名」について、力の入った論文で、現代において、
称名念仏の声の少ないことを嘆かれたものです。
なるほど、お念仏の少ないことは、多くの心ある派内の方々が
感じておられるとおりでしょう。
山田勧学は最後に、「大遠忌の勝縁にあっても、念仏申されぬ
人は、いつ申すのですか」と言われ、「御堂をお念仏で満たしま
しょう」と呼びかけておられます。
まこと、そうあってもらいたいものです。
が、しかし、山田勧学も仰せのとおり、真宗でいわれるお念仏
とは、「信の上の称名」であります。
では、その信心を、弥陀より賜るには、どうすればよいのか。
ここが全く明示されていないのでは、いかんともしがたい。
平たくいえば、御馳走食べて、満腹すれば、誰しも、心から、
「ごちそうさまでした!」の謝辞が出ましょうが、では、そんな
御馳走、どこにあるのか?どうすれば、頂けるのか?かんじんの
そこが明らかにならないまま、ただ「ごちそうさま、と言いなさ
い!」と強制されても、そりゃ、口先だけの言葉しか出ません。
ぜひとも、宗門の内外に向けて、最も大切な「信心」について
どなたか、明らかにして頂けませんか。
信心の行者、繁昌ありてこそ、お念仏の声は、御堂の内外に、
満ちることでありましょう。
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この記事にコメントする
tibetanさん有り難うございます
tibetanさん、コメント有り難うございます。
過去のブログをお読みになればお分かりの通り、私も布教使として、各所で、
宗祖親鸞聖人の明らかになされた他力真実信心について、有縁の方に
お伝えしております。
その上で、このブログの目的は、浄土真宗の教界において、気になること、
このままではイカンと思えることを、批評するものです。
したがって、その批判の文章の中に、「では真実信心とはいかなるものか」も、
随所に書いております。
その私の書いたことで、ご不審があれば、こうしてコメントでお書き
下されれば、できる限り、お答えしつつ、その中でまた、真実信心に
ついて、書かせていただきます。
・・・というようなスタンスですので、よろしく願いします。
過去のブログをお読みになればお分かりの通り、私も布教使として、各所で、
宗祖親鸞聖人の明らかになされた他力真実信心について、有縁の方に
お伝えしております。
その上で、このブログの目的は、浄土真宗の教界において、気になること、
このままではイカンと思えることを、批評するものです。
したがって、その批判の文章の中に、「では真実信心とはいかなるものか」も、
随所に書いております。
その私の書いたことで、ご不審があれば、こうしてコメントでお書き
下されれば、できる限り、お答えしつつ、その中でまた、真実信心に
ついて、書かせていただきます。
・・・というようなスタンスですので、よろしく願いします。