世界の光・親鸞聖人の教えを世界に!
夢は大きく、現状には厳しい目を!
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「みほとけとともに 西本願寺の時間」で今朝しゃべっていたのは
熊本県良覚寺住職で、本願寺派布教使の吉村隆真。
タイトルが「重層信仰にさようなら」。
うん、いいぞ。これ、このまま最後まで一貫して主張できたら立派
なもんだと思いつつ、聞いてみると・・・。
「日本人の生活は、神社に行ったり、キリスト教の教会に行ったり、
葬式法事は寺に頼んだり、重層信仰になっている」
ふむ、ふむ、その通り。
「親鸞聖人も、
悲しきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す
と、嘆いておられます」
よくぞ、聖人のお言葉を出してくれた、と、ここは評価しましょう。
でもね、でもね、吉村クン、その後が、ツメが甘いんだよ。
「心得違いをなさっている人が多いようです。
皆さん、どうお考えでしょうか」
というような、疑問形で終わっては、「オレは、そうは思わないよ」
と反論されて終わりなんです。
そう言う時は、蓮如上人もなされたように、親鸞聖人のお言葉を
挙げて、その意味を分かりやすく、ていねいに話をして、
「親鸞聖人は、このように仰せですよ」
とだけ言うんです。それを伝えるのが、布教使の責務だし、宗祖の
お言葉を聞いた人が、あとはじっくりと、反省をするのだから。
布教使、というくらいだから、如来の「使い」であり、宗祖の「使い」
に徹するべきなんです。そこに、自分の考えを混入して、
「と親鸞聖人はおっしゃっているんだけど、あなたは、どう思う?」
なんて不浄なことを、言うもんじゃありません。相手の考えることと、
親鸞聖人の仰せとを、比較検討しようとしているのですが、そんなもの
同列に論じられるようなものですか。聖人の仰せが、ずーーーーーーっと
重いに決まっているでしょう。
だから、布教使なら「使い」に徹して、
「親鸞聖人は、このように嘆いておられますよ」
ということを、ビシッと言い切って、終わればいいんです。
せっかく正しいことを言っていたのに、最後の最後で、ガタガタに弱め
て終わってしまうんだから、残念だよなあ。吉村クン。
熊本県良覚寺住職で、本願寺派布教使の吉村隆真。
タイトルが「重層信仰にさようなら」。
うん、いいぞ。これ、このまま最後まで一貫して主張できたら立派
なもんだと思いつつ、聞いてみると・・・。
「日本人の生活は、神社に行ったり、キリスト教の教会に行ったり、
葬式法事は寺に頼んだり、重層信仰になっている」
ふむ、ふむ、その通り。
「親鸞聖人も、
悲しきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す
と、嘆いておられます」
よくぞ、聖人のお言葉を出してくれた、と、ここは評価しましょう。
でもね、でもね、吉村クン、その後が、ツメが甘いんだよ。
「心得違いをなさっている人が多いようです。
皆さん、どうお考えでしょうか」
というような、疑問形で終わっては、「オレは、そうは思わないよ」
と反論されて終わりなんです。
そう言う時は、蓮如上人もなされたように、親鸞聖人のお言葉を
挙げて、その意味を分かりやすく、ていねいに話をして、
「親鸞聖人は、このように仰せですよ」
とだけ言うんです。それを伝えるのが、布教使の責務だし、宗祖の
お言葉を聞いた人が、あとはじっくりと、反省をするのだから。
布教使、というくらいだから、如来の「使い」であり、宗祖の「使い」
に徹するべきなんです。そこに、自分の考えを混入して、
「と親鸞聖人はおっしゃっているんだけど、あなたは、どう思う?」
なんて不浄なことを、言うもんじゃありません。相手の考えることと、
親鸞聖人の仰せとを、比較検討しようとしているのですが、そんなもの
同列に論じられるようなものですか。聖人の仰せが、ずーーーーーーっと
重いに決まっているでしょう。
だから、布教使なら「使い」に徹して、
「親鸞聖人は、このように嘆いておられますよ」
ということを、ビシッと言い切って、終わればいいんです。
せっかく正しいことを言っていたのに、最後の最後で、ガタガタに弱め
て終わってしまうんだから、残念だよなあ。吉村クン。
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