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世界の光・親鸞聖人の教えを世界に! 夢は大きく、現状には厳しい目を!
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 毎度、おなじみ、聞いておりますよ。「みほとけとともに 西本願寺の時間」
先週に引き続き、今週も、熊本が誇る若きエース、吉村隆真クンの登場です。

 題して「浄土真宗ってカッコイイ」。
 ちょっと、ミーハーに流れ気味ではありますが、実体験に根ざしたひとこと
なんですよ。内容を聞いてみれば、分かります。

 「本物にふれると偽物にまどわされない」これは、宗教でも同じだ、と論じ、
「本物と偽物を見分ける方法は、疑ってかかることだ」と言います。
 たしかに、何でもかんでも、諾々と信じてしまっていては、迷信に振り回さ
れて大変です。疑ってかかる、まあ、そうでしょう。

「皆さんも、浄土真宗を疑ってみてください。私の知る限り、浄土真宗には
一点の曇りもありません」
という結論も、磐石の自信をもって、いわば「さあ、どこからでもかかって
来なさい」的は、語り口といえましょう。
 吉村クン、やるじゃない。
 ていうか、これ、検閲でカットされなくて、よかったね。

 そこまで言ってくれたので、二つ、注文です。
 一つは、せっかくここまで言うからには、親鸞聖人もそうおっしゃって
いるのだ、という根拠を示しておけばよかった。

「もしこの書(教行信証)を見聞せん者は
 信順を因となし 疑謗を縁となし
 信楽を願力にあらわし 妙果を安養にあらわさん」(教行信証後序)

 信じる人は、それを因として、仏法聴いてもらいたい。
 疑ったり、謗ったりする人も、それを縁として、聞いて欲しい。
 宗祖の御心を知らされる一文です。
 実際、祖師を殺さんとした山伏弁円でさえ、聖人のお弟子となり、明法房
と生まれ変わったのです。まさに、疑謗を縁として、でありました。
 疑うことも、聞法のご縁となるのです。
 このお言葉、出しておけばよかった。

 もう一つ。
「欲望に支配されている自分から解放されていくところにこそ、真の御利益
(救い)はあるのです」
 これは、意味不明、というか、強いて読み解いてみたのですが、欲望(これは、
煩悩であり、罪悪)に支配されているか、解放されているか、というところで
救いを語ってはならないことに、浄土真宗ではなっています。(意味を取り違え
ていたら、ごめんネ)
 いわゆる「罪の沙汰は無益なり」、研修で聞かれたでしょう。
「罪の有る無しの沙汰をせんよりも 信心をとりたるかとらざるか の沙汰を
いくたびもいくたびもよし」
と蓮如上人は『聞書』に仰せです。信を獲たか、否かの沙汰をおおいにすべき
である。「さるべき業縁の催せば いかなるふるまいもすべし」ですから、
罪悪で救いを論じてはならないのです。
 つまり、表現するとすれば、「欲望に支配され、欲望から離れ切れない私を、
そのまま救い摂ってくだされる」のが、弥陀のご本願ではないですか。
 ここのところの言い回しは、もう少々、検討したほうがよかったかな。

 いや、もしかしたら、原稿チェックの段階で、書き直されてしまったとか。
そうか、それなら分かる気がします。
 どこからも突っ込んでこれないように、わざとぼかした表現にすることって
ありますからね。そうか、そういうことも、有り得るなあ。いやあ、吉村クン、
いろいろなしがらみの中で、大変ですね。
 がんばってください。
 いや、熊本弁でいうと、「ガマ出しなっせ!」ですね。
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