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桜の下で

「みほとけとともに 西本願寺の時間」では、藤澤めぐみさんでした。
題は「阿弥陀様からのメッセージ」。

 その結論は、こうでした。 
「南無阿弥陀仏のお念仏は、常に、我が名を称えよ、必ず救うと、この
私たちに届けられた阿弥陀様からのお呼び声だったのです。」

 阿弥陀仏の本願は、「我が名を称えよ、必ず救う」というお誓いで
あると言われていました。

ここで、疑問が、出てきます。

(1)「必ず救う」と誓われている、ということは、まだ救われては
   いない、ということです。
    では、阿弥陀様に救われるのは、いつなのでしょうか。
    この世で、救われるのでしょうか。
    死んでから、救われるのでしょうか。

(2)「救う」とは、何を、どのように救うのでしょうか。
   藤澤さん言われる「この世には、辛いこと苦しいこといっぱい
   あります」というそれらの苦しみは、どうなるのですか。

(3)「お念仏を称えれば救う」と誓われている、ということですが、
   「いくら念仏称えていても、助からぬ人がいる」と教行信証に
   親鸞聖人が仰せられたのは、間違いでしょうか。
   「念仏称えていれば極楽に行けると思っているのは、おおきな
   間違いだ」と仰せられた、蓮如上人も、間違いなのでしょうか。

写真を見ますと、おやさしいお顔の藤澤さんを問い詰めるのは心苦し
いのですが、聞いていて、どうしても分からない点ですので、記して
おきます。
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無題
はじめまして。
管理人さんは、正解をご存知で、藤澤さんはそれを知らないようなので、それを明らかにしようとされているのですよね。
(2)「救う」とは、何を、どのように救うのでしょうか。
の正解が知りたいです。教えていただけないでしょうか?
K 2009/06/29(Mon)23:02:04 編集
Kさんへ
藤澤さんのお話では、出てこなかったので、
お尋ねしたのでした。
では、親鸞聖人は、どう教えておられるか、という点を、記します。

『教行信証』の冒頭に、仰せです。

「難思の弘誓は、難度海を度する大船
 無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり」

弥陀の本願は、すべての人の苦悩の根元である無明の闇をブチ破り、
苦悩渦巻く難度海の人生を、明るく楽しく渡して下される、という
お誓いです。
管理人 2009/06/30(Tue)22:51:12 編集
無題
管理人さん
有難うございます。お答え頂けると思っていませんでした。
もしよろしければ、もう少し質問させてください。苦悩は結局どうなるということなのでしょうか?また無明の闇とはどういうものでしょうか?

(すみません白状しますと、私も知識としては知っていながら質問しました。
ただ、いざ救いを求めようとすると、その救いとはどういうことなのか今ひとつわかってないことに気付き、知りたいと思ってましたので前のコメントしました。他意はありません。
このコメントを公開されるときは編集していただいてもかまいませんのでよろしくお願いします。)
K 2009/07/01(Wed)00:09:42 編集
Kさんへ
二つのご質問ですね。
(1)「苦悩は結局、どうなるのか」
   親鸞聖人は、
  「罪障功徳の体となる 氷と水の如くにて
   氷おおきに水おおし さわりおおきに徳おおし」
  と教えてくださっています。
   罪や障りが、功徳、喜びに転じ変わる、ということです。
   己の罪悪が照らされて懺悔となり、それが喜びに転ずる、
  ということです。これを「煩悩即菩提」とか、「生死即涅槃」
  などと、親鸞聖人は教えられています。

(2)「無明の闇とは何か」
   後生暗い心を、無明の闇といわれます。
   後生とは、死んだ後ですから、死ねばどうなるか分からない、
   ハッキリしない心のことです。
管理人 2009/07/01(Wed)13:09:12 編集
本人より、辛口でのお育て、ありがとうございます
「ラジオ法話」をさせていただいた、藤澤めぐみ本人です。たまたま、このページを知りましたので、コメントさせていただきます。

辛口時評では「救い」について3つの観点から疑問を投げかけておられますね。

(1)「必ず救う」と誓われている、ということは、まだ救われてはいない、ということです。
では、阿弥陀様に救われるのは、いつなのでしょうか。

とありますが「必ず救う」と誓われている時点で、「救い」が決まったという事ではないでしょうか。それはすなわち、死んでからとか生きてるうちとかいう「私のはからい」を超えたものではないでしょうか?
「我、超世の願を建つ 必ず無上道に至らん。この願、満足せずんば、誓って正覚を成ぜじ」と、無量壽経に説かれていますから、私が生まれるとも生まれないともに関わらず、今、ここにいる私に、阿弥陀さまの救いが届いているのではないですか?また、そのことは同時に、今「阿弥陀仏」となられ、浄土を建立してくださり、「阿弥陀」という仏となられたのですから、すでに救いが定まっているのではないですか?


2)「救う」とは、何を、どのように救うのでしょうか。

「生死の苦海ほとりなし」ですから、苦しみが無くなる訳ではないでしょう。この世での苦しみが無くなる事が「救い」の目的ではありません。しかし「久しく沈める我らをば、のせて必ず渡しける」ですから、この「苦しみ迷う私」をめあてに、浄土の働きとしての「救い」があるのではないですか?
だから、「この世には、辛いこと苦しいこといっぱいあります」というそれらの苦しみは、どうなるのですか。という事に対しては「私たちの力ではどうもなりませんよ。」としか答えられません。
「救う」とは、この苦悩に迷う私を、かならず浄土に救うというのが、弥陀の働きと味わっております。

(3)「お念仏を称えれば救う」と誓われている、ということですが、
   「いくら念仏称えていても、助からぬ人がいる」と教行信証に
   親鸞聖人が仰せられたのは、間違いでしょうか。
   「念仏称えていれば極楽に行けると思っているのは、おおきな
   間違いだ」と仰せられた、蓮如上人も、間違いなのでしょうか。

という事について、私は、上記のような考えこそ「念仏が免罪符になっている」と誤解されかねない、と考えます。少なくとも、私は念仏となえたら救われるとは、言っていません。念仏せずにはおれないというニュアンスでは言っていますけれど。
煩悩にまみれ、父にも偉そうに言ってしまうこの私。おおよそ救われようはずもないこの私に、間違いなく阿弥陀さまの願いが届いている。その事が救いであると申したまでです。

議論や反論をするつもりで、ここにコメントを書いたのではありません。むしろここにコメントを寄せる事は、立場上、控えたほうがいいのかなとも思いましたが、これも仏縁と思い、コメントさせていただきました。
お育て、ありがとうございました。
藤澤めぐみ 2009/07/01(Wed)22:33:54 編集
藤澤めぐみ様へ
ご本人からコメント頂けるとは思ってもおりませんでした。感激です。
お忙しい中、拙文に感想をお寄せくださり、有り難うございます。

(1)は、「現生不退転」「平生業成」の宗祖の御心を明らかにしよう
とした問いでありました。
 巷間よく耳にする、十劫正覚の昔に、すでに往生が定まったのだから、
万人が、死ねば往生できるのだ、という、蓮如上人も厳しく戒められた
「十劫安心の異安心」に陥ってはならぬ、ということを言いたかったの
であって、それ以外の意図はありません。

(2)は、「現生十益」の中の転悪成善の益を表明せんとした問いでした。
「私の力ではどうしようもない」のは当然ですが、では弥陀は、どのように
救ってくださるのか、宗祖のお言葉を挙げた通りで、それ以外のことでは
ありません。

(3)は、「南無阿弥陀仏のお念仏は、常に、我が名を称えよ、必ず救うと、
この私たちに届けられた阿弥陀様からのお呼び声だったのです。」との
ご法話について、お尋ねしたものです。
「我が名を称えよ、必ず救う」お誓いだと言えば、念仏称えれば救われる、
これが弥陀の誓願だと皆さんが聞かれるのではと愚考いたしまして、
唯信独達、信心為本の、真宗の要諦を顕彰せんとして、お尋ねした
までで、他意はありません。

 いずれの問いも、勝ち負けをどうこうというものでは全くなく、この
やりとりをご覧の方々に、少しでも宗祖の教えを正しく領解していただき
たいという思い一つでございますので、どうかご賢察たまわりますよう、
お願い申し上げます。
 アクセス解析によりますと、日々数百、多い時で、数千の方が
ご覧になっていただいております当ブログですので、宗祖の真意発揚に
いささかでも力になればと思っております。

 なお、言葉足らずで、不快な思いをなされたところがありましたら、全く
私の不徳の致す所でございますので、どうかご寛恕ください。
 今後とも、当ブログを、よろしくお願い申し上げます。
 藤澤先生の、ますますのご活躍を念じております。
  失礼致しました。
管理人 2009/07/02(Thu)00:19:45 編集
無題
管理人さん、ご回答有難うございます。

>(1)「苦悩は結局、どうなるのか」

苦悩=煩悩ですね。
苦しみそれ自体は少しも変わらないということですね。
分からないのは、それが功徳、喜びに転じ変わるとはどういうことなのか、また、どうして転じ変わるのかというところです。なってみなければ分からないところかもしれませんが、もしお答えいただけましたらよろしくお願いします。

>(2)「無明の闇とは何か」

死んだどうなるか分からない。確かにそうです。
しかしそういう「心」といわれると何だかよくわからない感じです。後生が不安な心、あるいは、後生を不安にさせる心といったことでしょうか?もう少し詳しく教えていただけたらと思います。
K 2009/07/02(Thu)23:30:21 編集
Kさんへ
重ねてのコメント、有り難うございます。

(1)「煩悩が歓喜に転ずるとはどういうことか」

 「シブ柿の シブがそのまま 甘味かな」
といわれるように、
シブ柿のシブをとって、甘味を注入して甘くなるのではありません。
 長く干しておく間に、シブが甘味に転じ変わるのです。

 同じように「煩悩が、菩提に転ずる」といっても、煩悩が無くなって、
喜びになるのではありません。煩悩あるがままで、それがそのまま
喜びになるのです。

 こんなたとえでは、いかがでしょうか。
 泳ぎのニガテな人は、プールはまだしも、波が押し寄せる海に行くと、
波がこわくてこわくて、なりません。潮水飲んで、苦しむからです。
 しかし、泳ぎの得意な人にとっては、波が大きければ大きいほど、
楽しいものです。
 プールでも、「波の出るプール」に行って、楽しんでいます。
 泳ぎのニガテな人には、想像もできませんが、泳ぎの達人は、そんなものです。

 波は、泳ぎの得意な人にも、ニガテな人にも、平等にやってきます。
 しかし、それが、苦しみになる人と、喜びになる人とが、あります。

 同じように、煩悩いっぱいで、悪しか造れぬのは、みな同じです。
だから、不幸や災難も、すべての人にやってきます。弥陀に救い摂られ、
往生一定となった人にも、やってきます。
 しかし、その不幸や災難の波が、そのまま苦しみとなる人もあれば、
それが喜びに転じ変わる人もあるのです。
 教行信証には、
「衆禍の波、転ず」
と、これを仰せです。

 凡夫の頭では、想像もできぬことですが、そんな不思議な境界ですから、
親鸞聖人は、
「不可思議・不可称・不可説の信楽(信心)なり」
と言われているのです。

(2)「無明の闇」について

「後生が不安な心、あるいは、後生を不安にさせる心といったことでしょうか?」

まさに、そうです。後生がハッキリしない、行く先が分からないことほど、
不安なことはありません。

 私、初めて、胃カメラを飲んだことがありました。内視鏡とも言いますね。
 ある大学病院に行き、申し込みますと、控え室で待つように言われました。
 何しろ初めてなので、不安で不安で、いったいどんなことが始まるのか、
心配でなりませんでした。

 待っていますと、検査室のほうから、時折、
「ウォッ!ウォォォォォォッ!」
という叫び声というか、うめき声がします。
 まさか、殺されているわけではないでしょうが、獣のような叫び声です。
 また、しばらくすると、
「ウォッ!ウォォォォォォッ!」
といううめき声。
 ひええ!あのドア一枚隔てた向こうで、いったい何が起きているんだ!
 しかも、もう数分したら、自分も、そこへ行かなければならない。
 でも、何が起きるのか、分からない。

 こんな怖いことは、ありませんでした。
「未来が、ハッキリしない」不安な心というのは、現在までも不安にするのです。

 芥川龍之介は、自殺の原因について、
「僕の場合は、ぼんやりとした不安です。
 未来に対する、ただぼんやりとした不安です」
と書き残しています。
 現代人も、何かハッキリとはしていませんが、未来への不安を
抱えてはいないでしょうか。だからこそ、今の一瞬、一瞬を、心から
満足して生き切ることができないで、いるのではないでしょうか。
 そういうすべての人の心の、深奥にある、不安、それを、無明の闇と
いわれているのです。

 というだけでは、まだまだ無明の闇を説ききったことにはなりません。
 すべての人の苦悩の根元ですから、これ一つ明らかにするために、
釈迦は一切経を説かれていますので、まだまだ説明は足りませんが、
少しでもわかっていただければと思い、つたない譬え話もまじえて、
書かせていただきました。
よろしくお願いします。
管理人 2009/07/03(Fri)10:00:08 編集
無題
詳しく解説いただき有難うございます。

> 凡夫の頭では、想像もできぬことですが、そんな不思議な境界ですから、
>親鸞聖人は、
>「不可思議・不可称・不可説の信楽(信心)なり」
>と言われているのです。

やはり頭で分かるようなこととは違うのですね。

> というだけでは、まだまだ無明の闇を説ききったことにはなりません。
> すべての人の苦悩の根元ですから、これ一つ明らかにするために、
>釈迦は一切経を説かれていますので、まだまだ説明は足りませんが、
>少しでもわかっていただければと思い、つたない譬え話もまじえて、
>書かせていただきました。

このブログは若干趣旨が違うかもしれませんが、このことについてより詳しく重ねて書いていただけたらと思います。

ご縁がありましたらまたコメントします。よろしくお願いします。
K 2009/07/04(Sat)22:25:27 編集
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