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世界の光・親鸞聖人の教えを世界に! 夢は大きく、現状には厳しい目を!
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 今朝の「みほとけとともに 西本願寺の時間」聞きましたか?
って言っても、聴いていない人が多いかなあ。それも残念では
ありますが。

 あいも変わらず、宗祖のお言葉はほとんどなし。
 出てきた話は、
「親が子供に、〇〇しなさい、と社会の規則や親の考えを押し付け
るのは、よくない。〇〇してほしい、という願いを伝えるべき」
という、ある人(誰なのか、よくわかりませんでしたが)の話を
紹介していました。
 そこから、みほとけの願い(阿弥陀如来のご本願)に結びつけ
ての話でしたが、これって、よく聴くと、真宗教義以前に、意見
としておかしくないですか。

 「人を殺してはいけません。助けてあげなさい」
という社会の規範であり法律であり、仏法でも当然、不殺生と教え
られていることを、教えるのが、「押し付け」になるのですか?
 かわりに、この人の説でいえば、
「人を殺して欲しくないなあ」
という、願いを伝えればよいということになりますが、それでいい
のでしょうか!?

 「でも、僕は、殺したいんだ」
という、今度は、子供の願い、を言ってこられたら、どうするの?
 「殺して欲しくない」
 「僕は、殺したい」
この二つの、対立する「願い」が衝突したとき、どうするのか。
そのために、社会には法律があり、世間には道徳があり、もっと
大きなスケールで、仏法では、教えがあるのではないですか。
 そういう社会の規範を「押し付け」るのがよくない、と言って
いるから、子供の「願い」(というよりは、単なる欲求ですが)
のほうが、親の「願い」に勝って、子供が言うことを聞かなくな
ってくるのです。

 「〇〇したい」という人間の欲、いわゆる貪欲ですが、それら
煩悩にまかせて行動していたら、いったいどうなってしまうのか。
 規範も何も、意味をなさなくなってしまいます。

 ここに釈尊は、厳粛な因果の道理を説かれ、廃悪修善をすすめ
られているのではないですか。
 廃悪修善は、弥陀の本願と関係ないじゃないか、という不勉強
な人も、中にありますが、弥陀の十九願にちゃんとありますよ。
十九願と二十願、そして十八願の「三願転入」については、真宗
学の基礎ですから、ご存知ですよね。
 その因果の道理、廃悪修善を教えるのも「押し付け」ですか?
 それじゃ、布教なんかできないじゃないですか。

 事実、私の子供がこれを聞いていて、
「じゃあ、やりたい!と思うことを、やればいいんだね」
という、ストレートな感想を言っていましたが、そうじゃないよ
と、話をしたことでありました。
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