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世界の光・親鸞聖人の教えを世界に! 夢は大きく、現状には厳しい目を!
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 案外ご存知ない方が多いと思いますが、本願寺社会部の
ホームペ-ジ
があります。
 そこに、このようにありました。

「親鸞聖人における死の受けとめ方
  親鸞聖人のみ教えは、浄土教の伝統を受け継いでいますが、
 阿弥陀仏の臨終来迎を期待するものではありません。ご消息
 には、次のように記されています。

 「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。
  このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心
  の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。」
                (『注釈版聖典』七三五頁)

  ここに親鸞聖人は、臨終の瞬間にみ仏の救いを待つ必要は
 なく、平生においてすでにみ仏に摂取不捨されているという
 救いを明らかにされています。
  それは、死に直面している人々の寂しさや不安を軽視した
 のではなく、いまここで、すでにみ仏に抱きとられ護られて
 いることを明らかにすることによって、どのような最期を迎
 えても、必ずお浄土に往生するということを説かれたのです。」


おっと、最後の部分、よくよく注意して読まねばなりません。
「いまここで、すでにみ仏に抱きとられ護られていることを明ら
かにする」

ここです。
すべての人が、阿弥陀仏に抱きとられ護られているのでしょうか。

親鸞聖人は、
「金剛堅固の信心の
 さだまるときをまちえてぞ
 弥陀の心光摂護して
 ながく生死をへだてける
          (高僧和讃)


 弥陀の心光に摂護されるのは、金剛堅固の信心の定まった時で
ある
と、仰せです。信心定まっていない人は、まだ摂護されては
いないのです。
 なぜ、こんな大事なことを明らかにしないのでしょうか!
 信心不定のままで、臨終を迎えれば、後生は一大事なのに。

「では、信心定まるとは、どういうことか」
と問われたときに、答えられないから
・・・まさか、そうでは、ないでしょうね。
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